マイクの読後感 「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」

                                          2010.6.2                       古人のパワーのページに戻る トップページに戻る

 

 

 

マイクは HPとは別に 掲示板とブログを幾つか立ち上げていて その一つがこの読後感ブログです

20083月に ヘルニヤになって死にたいくらいの時にこの本に巡り合いました

この本と作者に感銘しながらも しっくりしない違和感があって それをブログ「読書感」の中で語りながら 自死について考えようとしました

330日から 419日まで一気に読み 毎日疑問や批判をした日記形式のこのブログを 時系列的に読み返すのはとても遣り難いものです

 

この度 2010.79 19時からの 京都哲学カフェ@京都ギリシアローマ美術館 での講師を依頼され テーマがマイクのHPにある「私の自死道」と言うことになりました

しかも肩書の無いマイクは フリーダンサーとして話させて頂くことになり 当日聴講される方がおられることか またご期待を裏切らないかと心配しております

つきましては HPを見直し またそのブログを見易いページに書きかえるべきだと思いまして ここに先ずブログをそのまま 時系列並 びに転記し直して見ようと思います

2010.7.9

と言うことで これ以下はそっくりそのまま マイクの「読後感」ブログを 思考の時系列をそのままに転記したものです

読んで頂きましたら 感想ご批評を BBSなり メールにて是非ともお願い致しま

 

 

マイクの読後感 「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」読後感ブログ

 

先ずブログのページのトップの案内記事は以下の様です

 

私マイクスタンディングは 2月24日の新聞書評欄でこの本を知る
書評を熟読しただけで共感し興奮するが だけど多分マイクにも納得できない言い分があるだろうことを察し 本屋へ行くが1月25日の初版初刷在庫は市内のどこにもなく 2刷版を予約して待って やっと今日から読むことに

自死という生き方 覚悟して逝った哲学者 那須一秀 双葉社 1890

晴朗で健全で 平常心で決行される自死がありうる
65歳の春 ひとつの「哲学的事業」として著者が決行した自死
そのために書かれた遺稿「新葉隠」と 浅羽通明による解説を収録する


〈須原一秀〉1940〜2006 大阪生まれ 社会思想研究家 自身の哲学的事業として自死を遂げる 著書に「高学歴男性におくる弱腰矯正読本」「超越錯覚」ほか

1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、それぞれの不可解
2章 なぜ彼らは死んだのか?
3章 「未練」と「苦痛」と「恐怖」
4章 死の能動的受容と受動的受容
5章 自然死と事故死と人工死
6章 武士道と老人道
7章 弊害について
8章 キューブラー・ロスキリスト教徒の苦境
9章 補助的考察
10章 雑感と日常

予約してから今日までは書評サイトを読んで マイクのHPのBBS(古人のパワー)に この本の期待と思いを少しは書き込んだ

私は 2月10日のコンテンポラリーダンス公演のための練習と 日頃のエアロの歳甲斐もないやり過ぎで きついヘルニヤになって要手術レベルの激痛の毎日です

一カ月断酒謹慎で様子をみるべきとのことで 死に体の瀕死状態でもあります
激痛は本当に 自死や安楽死を考えさせるくらい辛い
明日3月31日に手術の判断をすることになっているが 結果はともあれ我が身は否応でも自死寸前を体験し 自死を考えさせられる状態にあります

そこで先ず読書し 読後感をここに記し そのあとマイクの思いなどを整理してみようかと思ったので このブログを立ち上げる事となりました

このブログにご意見を またマイクのHPにリンクして下さるようお願いします

 

マイクスタンディングのHP

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HPのBBSのひとつ 古人のパワーのBBS
http://8602.teacup.com/mikekodaijin/bbs

マイクの腰痛日記になってしまったブログ
http://sky.ap.teacup.com/mike-st/

初めに話した書評を 下記に転記します
大阪府立大 森岡正博教授 2008.2.24 京都新聞 より

 これは真の論争の書だ
自殺について考察した本だが 社会思想研究家だった著者の須原さんは 人生を肯定したうえでの明るい自死は望ましいものであると本書で結論づけたのちに 二〇〇六年四月 身体も精神も健康なままで実際に自死した
六五歳であった
 自死の直前まで書きつづられた本書の内容は力強く 自分の哲学をそのまま実行し得た者だけがもつすがすがしさを湛(たた)えている
今の風潮を考えれば この本は社会的には丁重に黙殺されるかも知れないが しかし人間の生と死に関心をもつ者はぜひ読んでおくべきであろう
 人生で誰でも経験できるような「幸せの極み」を幾度か体験したがゆえに 「自分は確かに生きた」と日々身体で納得しており 今死んだとしても何の後悔もなく死ねると確信している人が 実際に自死すること
須原さんは そのような死に方のことを 絶望の自殺と区別して 「自決」と呼んで 擁護しようとしている
 須原さんは 自決を前にした自分自身の気持ちを点検して 人生に対する未練も 死に対する恐怖も おのずと消滅していって 気にならなくなったという
自決する人間の精神は まったく暗いものではない
なぜなら 「死ぬべきときには死ねる」という確信があれば 気持ちに雄大さと明るさが備わってくるからである
 「そこまでの確信があるのならば 別に自決しなくても 最後まで生きればいいではないか」という反論にたいして 須原さんは 痰(たん)でのどを詰まらせて苦しみのうちに窒息するというような死の迎え方よりも チャンスが到来したときみずから間髪を入れずに自決するほうが望ましいのだと主張する
 須原さんが念頭においているのは 人生の大半を経験し終えた老年者の自決である
自決の仲間作りも提唱している
ここまで確信に満ちた自決の実行者を われわれは正しく批判できるのか
本書は現代人ののどに突きつけられた刃(やいば)である


大変美しく書かれている
しかし読後のマイクには 勿体なさを拭い切れず そこに人権や社会性についての社会思想研究家の心を読み取ることはできなかった
書棚に備えておくだけでは済まない大事なこの事業のこれからに マイクの遠からないその時のために望みを託したい

 

さてこれからがブログの始まりです

冗長ですが 本書の概要と 個別の内容ごとにマイクの所感を述べています

章ごとか 項目ごとに簡単な要約をし ・・・と ***の後に マイクの感想をコメントしています

以下飛ばし飛ばしででも見て頂いて 気に掛かるところを見つけられたらお読み頂いて ご意見ご批評をください

 

2008/3/30 「この本に巡り合う」

この本を知ったのは 新聞の書評であった
この14日に ジュンク堂と大垣書店で求めようとしたが共に品切れで 予約して今日まで待った
早速 巻頭にある解説と 巻末の遺族の言葉 だけを読む
明日から この本の解説で勧めている通り 最終章 雑感と日常 から読むことにする

 

2008/3/30 「巻末 最後に 家族から を読む」

先ず短くご遺族のようすを記した巻末の 「最後に 家族から」 にあるご子息の言葉を読む
清くと 日頃言っていた信頼する父の死に 寂しいが悲しむことではないと理解しておられる
死について積極的に考える切っ掛けを と願って遺稿を出版されたと言う

*** 誰でも どんな家庭でもできることではありませんが マイクは羨ましい面も感じます

 

2008/3/30 「巻頭解説 浅羽通明を読む」


評論家 浅羽通明は 巻頭に この死者を見よ 『新葉隠』との対話 と題して解説している
この哲学者の遺著は 「新葉隠」 と題されていたこと 2006年4月初め 神社の裏山で頸動脈を斬り裂いて縊死したこと 人生の極み(高み)を充分味わい 健全で友人や家族に恵まれ 事前にK氏に告げてもいるし 事後は家族からの受容もあった 等の事実をあげる
分析哲学の実用研究としてAI(人工知能)開発をしていたこともあって 身体性を取り込み 分かり易く役立つ哲学を志向していたとも
本書のエッセンスとして 悲惨な自然死の事実 人生を肯定するための死の哲学と社会的受容を主張し その通りユーモアを持って生き 納得し 実践するという一つの事業をなしたとする

解説者は 最後に哲学者が勧める老年者(自死)共同体は 自然死共同体からの(安易な)離脱ではないかと疑問を投げる

追記に 筒井康隆の 銀齢の果て に 老人同士バトルロワイヤルさせる自死小説と 朱川湊人 鉄柱 に 自死を儀式化して許容する社会が 小説となっていて 本書と合わせ考察に値するとしているのは愉快
またこの哲学者のユーモアを 末尾10章の直前までの日記から先に読み取れとある
マイクはお教え通りにしようと思います

*** この本の哲学とその証明とは 葉隠れ 陽明学 ズバリそのもののように思えてマイクは痺れます

 

2008/3/31 「10章 雑感と日常 を読む」

解説者のお勧め通り 著者のユーモア人たるを知るために 10ヶ月前から2週前までの日記風の 10章から読むことに

10章 雑感と日常

雑感

告知
05年8月 自分の意思を客観化するために友人3人に告知し 理解を得ると
一人思うことと話してみることの違いが何か分ったとも

なぜ今か?
40歳前後に友人に65歳の人生にすると決めていたと
死の身体化 を確認できる時期であり 春休みは教職での迷惑が少ないからと
・・・自分の意志からだけでなく 友人や外部にしがらみを作ってしまっているのは 自らと言うより 他人からの受容を仕掛けているのかも知れない

私の場合の受容条件
充実感・達成感を条件とする平常心の死
受容する仲間をつくって 社会が受容するようになること
個人ですることでなくなるべし
壮年には無理だが 団塊の世代の老人に期待すると・・マイクは反論あり

肯定主義との関連
人間の可塑性を認める著者の哲学で 生死の価値の多様性を認める
・・・多様性だけでなく尊厳性については無視しているのだろうか

臓器提供
H17.11.4に 意思表示カードのすべて丸
お役に立つというだけで 深く考えずにと

*** 告知された友人たちは ほう助に当たらないのか 友人哲学者のお考えと責任と マイクは・・・

*** マイクがこの本に接して直観的に勿体ないと思ったのには マイクの老人道 つまり 懺悔しなければならない老人による罪滅ぼしを 著者が考え思ったことがあるのかと
ラッキーで充実しているだけで終わっていいものか それは団塊世代の自己中でしかないのでは
許してもいいが もっとやるべきことが 恩返しするべきことが あったのではないか
閻魔さんは如何言われるか 考えたことがあるのでしょうか
この本を読もうとしたのはここにあります

 

2008/3/31 「10章 雑感と日常 続きを読む」

10章 雑感と日常

雑感 の次に 日常生活 について語っている

私の体質
先のことを考えない体質か 人工死の葉隠的正当化への論拠が整い 11月より気持ち楽になったと

排気ガス
排気ガスやタバコの害も気にしないでいいのに また吸い始めたいとも思わない

死ぬ前に読みたい本
忙しく 自分の書いた本しか読んでいない

花火大会
来年は見に来ないことへの感慨はない

人生の基本
妻のその後を考えると割り切れないまでも うまくやるだろうと希望的でもある

有意義な生活
9/17平常心 9/20開放感と記す
しかし文章を残す義務感で 遊びたいが遊んでいないと


正月近辺で何度か見たが 夢分析するようなものではなかったと

あせり
11月になると書くのが面白くなるが時間で焦りも
ゆっくりやるタイプなので 余裕なくなると滅入るので決行を延ばすことを思いつき楽に

横着さ
いつもの通り元々の横着さで 車椅子の老人を見比べて自分にホッとすると

あー、死にたい
それはほっとさせるために言っている
自分で決めたものでもないのかと苦笑いすると

感傷的になること
元々未練を持たない自分 本気にならない性格

大晦日と正月
1/6ジムでエアロとパワーヨガを 週4回とか
・・・マイクは週7回 ここはそっくり

最終講義
友人に感傷的になっていないと告げると 納得してやっているからだと理解される

新聞
未練少なくなり読まなくなる

二月は二十八日まで
本の仕上げに焦っていることを友人に告げ笑われた

葉隠とソクラテス
葉隠を書き ソクラテスになりたいのだな と哲学者友人に言われる
もうひとりと死に場所について 滋賀医大へ臓器を送り易くと相談
老いた心臓が使えたらと見栄を張る
2/6 1年延ばしたらとも提案される
・・・親切と言うか 只の友人ではない

遊び?ゲーム?皮肉?
それらで生きているのではと言われる
地獄に関心がないことを 世俗主義と言われたと
論ずることは楽しいだけ
武士の死もただの事故死とどこが違う 同じでは
死の問題を 何か夢中になることで忘れているだけではないか
3/16完

*** 最後に なんだか寂しさ 不完全さを素直に見せているように見えるのは 読む者に辛いところがある
*** まだまだ仮想の段階であるような
*** やっぱり強がりの 意地の 見栄っ張り
*** 友人には恵まれている 流石哲学する人たちの仲間 しかし・・
*** ユーモアを見ようとしたが サッパリ感くらいしかないのはしょうがないけど
*** マイクは 未練や拘りのなさを強調するのには引っ掛かるし寂しい
*** しかし使命感がチラッとだが漂うところにマイクは救われる
*** 自己中でラッキーな人生を感謝しておられるのか 読み取れなかった

2008/4/1 「あとがき を読んでしまう」

あとがき

本書と自死決行は ワンセットの哲学プロジェクト
「一人称の立場での死の認識論」である
死にたくなった時に 「パイド」「歎異抄」「葉隠」よりも読んで欲しい
夢野久作「近世快人伝」のファンとか
未開拓領域の研究の今後の蓄積の一つになることを願う
著者の2冊とこの本の内容の 死生学への統合を語る
あと2ー3ヶ月の推敲の時間が欲しかった
内容の不十分さを心残りとするが 意味あるところと真摯さを読み取ってください と終わる

*** マイクはこれから本文に入って 哲学者須原一秀と その思想と理想を読み取る
*** 人となりは10章で 果たして読み取れたかは やはり文書だけではと思う
*** 優れた友人がおられるのだから ご本人ではないけれどもいつかせめてそれらの方々から感じ取りたく思いますが
*** 仲間を作ることを夢見ておられたことに一番 ご友人が共感し理解されておられていたのだから
*** マイクがその仲間になれるか 基本的に通じてはいても 直感的に勿体なさを感じてしまいます
*** そのようなお話と いつか来る もう来ている老人道を終わるために 早くするべきこと見つけたいと思います

 

2008/4/1 「はしがき から読む」

さてやっと 本文巻頭から読む
著者の生前設定した タイトルがそのまま 題名として復活させたトップページにしてある

新葉隠 死の積極的受容と消極的受容

はしがき

厭世的文や詩に感銘したりはするが 厭世論者や虚無主義者ではない
はかなさや孤独の体感はないと言い切る
普通の生活と両立すること 敬意の対象になる可能性をさぐるための哲学的事業だと
死に対して弱腰でないことを立証するための事業
哲学は学問的には成立しない
では哲学者に残された社会に貢献できる仕事は
科学と資本主義で 現代の死は宗教に頼れない
死の問題の知見・実感・体感の蓄積がなされる
追試する者が出れば 客観的成果が出るだろう
事業の有意義なることを願っている

*** 生前に理解ある友人に恵まれてはいたが この哲学にどれだけ彼らが寄与したのでしょうか
*** これから一人哲学者の思考の凡庸さを 最後の実験の仕掛けと結果で証明しようとしている
*** 仮説と演繹で作られた理論も 小さな最初の実験から始まって蓄積されてやっと証明され受け入れられる
*** 友人たちは直感的に受容している
*** 仲間の理解なくしては最初はなかったであろう
*** 仲間がいてこそ意地が張れたので継続できたのではないだろうか
*** 追試はいつ凡庸なものとみなされるか 哲学者の一番の期待である

 

2008/4/3 「全巻読み通してしまう」

258頁のこの本を 熟読しようと巻末の家族の言葉 巻頭の解説 解説者のお勧めで10章の日記の順で読み進み 一昨日からやっと本文巻頭の はしがき を読み出した

そこまでは要約とコメントを交えることで熟読ができそうだったのでそうしてきたのですが
   本文1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、夫々の不可解
を読み始めると 昨日は一気に
   残り9章まで
読んでしまった

よく考えると 立派な哲学者の思想に 要約や小ざかしいコメントを一々差し挟むのも無粋というものです
哲学者のお考えと それで終わらぬ実践に敬意を払おうと 多分に理解しにくい論説に飾られているかもしれないと 初めから構えていたからなのです

それにベストセラー 東西ベストテンには入ってはいないのですが 既にHPやブログには沢山の書評が見られます
既に本書をお読みの方も これらの様々なご意見感想は ご自分の考えを整理するのにもお役に立つと思います
まだお読みになっていないか 読むことも無かろうと思われておられる方なら尚 書評はお読みになられたらと思います

和彦のメモログ http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_6648.html
志村建世のブログ http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=1249622
福嶋聡コラム http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/crmaf75.htm
韓国日和 http://fuminblog.exblog.jp/8430601/
とんぼ丸漂遊記 http://tonbomaru.blogspot.com/2008/02/blog-post_5697.html
大学の大罪 http://blogs.yahoo.co.jp/ja1zb/31169713.html
メンタルヘルス関連書籍 http://astore.amazon.co.jp/dakaramata-22/detail/4575299987
ARSVI.COM http://www.arsvi.com/b2000/0801sk.htm

 

2008/4/4 「読む前からの疑問」

つい一気に読んでしまったのは 哲学書ではなく一般人に極当たり前のこととして理解させようと語りかけているからであろうと思います
また 読み始めると私の考えも湧いてきて 気になること 例えばその先に未練がないのか それをどう克服するか 等がどうしても早く知りたくなってしまう

読み始める前から疑問に思っていたこともあって まだまだやるべきことがあるのではないか 何故やらないで済ませられるのか そこがマイクには一番知りたかった
今ざっと読み終えてみてもその答えがあったようには思えていない それくらい淡白な著作であるように思ってしまった

自死を実行されただけでなく 社会的な啓蒙を使命とされておられる真剣な哲学者であるだけに 殆どの人が自死を躊躇されるのは未練があるからですから この点を説得しなければと思ってしまいました
その他のことは一つ二つを除いてマイクは殆ど仰せのとおりと納得できますし ことさらユニークなことでもなく感激するようなことはなくクールに受け入れました

殆どのことに真実を述べておられるので また要約するほどの長文でもないので 読んでいただくことをお勧めします
書評の殆どが理解はできるし よい死に方よい生き方を考える為の価値を認めていますが 高を極めることの基準とは何か 結局は老人の強がりではないか と言っているように思う

マイクは読む前から直感的に 能天気なお坊ちゃん 何事にも懺悔不要で自己中な 団塊世代の範疇のラッキーでハッピーな方の しかも友達に恵まれて啓蒙したがために自らの羽目に嵌らざるを得なかった そんな方の強がりのように思えていた

それはそれで何も非難することではないかも知れませんが マイクには勿体ないとしか言えません
哲学者としての使命を果たそうとしとこの事業には大いに尊敬の念を感じます
不十分で未完成だからということは全く評価を下げません
まだまだ議論しながらこの勿体ない哲学者の生き方の理想に近付きたいものです

 

2008/4/5 「読む前からの直感」

昨日は読む前の直感として書き込んだが 一昨日に挙げた多くの書評は読んでいたので 中でも

福嶋聡コラム http://www.jimbunshoin.co.jp/rmj/crmaf75.htm
は  ジュンク堂大阪本店の方の引用もあるしっかりしたものですので これから私がもう一度じっくり読んで見ようとは思わなくなりました

私マイクのHPの中のBBS 古人のパワー の 3月12日15日17日30日にもサラリー行者とマイクの直感を書き込んでいます
http://8602.teacup.com/mikekodaijin/bbs

3月12日サラリー行者
書評によると自決の仲間作りも提唱しているとか
世直しをテーマとする我々世直し老人仲間すら中々作れていないが 自決の仲間となるともっと大変であろう
もしそのような仲間が見つかれば ただハッピーな自死で満足するだけでなく 命をかけた世直しを楽しんで?から自決することを勧めたいと思う
つまり必殺老仕事人と自決のセットということです
もう一度のつまりで言うと自爆テロ

しかし本当にそれをバックアップするだけの理論思考が我々に出来上がっていないので かような無責任発言は容易にできない
そのためにも今もっとも考えたいのは 特攻隊に始まる自決が自爆行為としてテロ世界で進化して実存している真実を理解したいと思っている
自爆という自死の意義をこの作家は問題にしているのかどうか 立ち読みでなく買い上げてから 私も自決を進化発展させたい そういう気になってきた

同じく17日
生と死を共に自決したいが 自決生はどこにでもあるが 自決死は自殺やテロや集団自死とも違うもので 安楽死をあれこれ誤解しかしていない社会ではこれからもっと哲学されなくてはならないものだと言っているのでしょう
こういう生き方を積極的に薦めるかどうかを著者は 積極的受容と消極的受容がかなり大事なポイントであるとするのにそれを どうも言い尽くさず自死してしまったようだ

先日 「白夜の大岩壁に挑む」という本を立ち読みして登山家夫婦の幸せな日常と 生死を賭けた冒険の非日常の生き方の両方を読み取った
爽やかな日常と 死を賭けた非日常の両方で ほのぼのとさせる特異な冒険家

非常勤講師を通されてでも哲学を楽しみ 妻子に何も心配なく安楽のうちに隠れて自死した著者の個人的日常は 冒険家とはかなり違うが 将来の一部のラッキーな方の石杖となるでしょう

ソクラテスや三島や伊丹十三ほどでもない我々が哲学者や冒険家のように自決的生き方ができるかどうかは分かりませんが なんとなく憧れていた「必殺老人道」がそれかなと安易に考えていた私なのです
哲学も充分せずに テロ老人や特攻老人を思いついたばかりに 人を選んではお誘いしていたことを少しばかり恥ずかしく思う

*** どうしても哲学者である著者に 能天気な哲学を期待したくはなかったのです
ラッキーな生き方ができた方のみが そのラッキーを全うしようと言う老人道
それはそれなりに 体にそう思わせるための準備がいるという哲学

*** 冒険家には誰にでもなれなくても 自爆テロにでもなら日本人には似た歴史があるのだから やって死んだらという必殺老人道
そんな観念思考を否定するならするで もっと論じて欲しかった
必殺老人道は哲学未完成だが 応用範囲が広いように思う
安楽な生と 安楽な死をお勧めしているだけも 社会的に容認されない不都合に 身をもって訴えられているのは気持ちとして痛いほど分かりますが

 

2008/4/5 「何故能天気なのか」

この問題は この本だけでは分からなかったが 著者が盛んに薦める自作の3冊を読む必要がありそうだと思い 書評サイトで済ませるものならと探してみた
本当はご友人とかからも 人となりについて 是非知りたいところですが


高学歴男性におくる 弱腰矯正読本男の解放と変性意識 新評論 2000.1
極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/02/post_6cc1.html

*** 男性の解放には横着さが必要だと説く
今回の本にある自死の度胸は既にこの時には 或いは生まれつき出来上がっていたことが この書評で成程と思わせる丁寧さで解説されている


現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組体は自覚なき肯定主義の時代に突入した 新評論 2005.2
アクエリアン http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2005/06/post_3f7d.html

*** 誇大なタイトルであるが納得させられることばかりと 詳しく内容をフォローしておられるので 熟読価値ある書評です
全くマイクもそのまま嵌りたいくらいですが 何もかも現実肯定で生きればいいではないかと言う著者のようにはハッピーでもなく その極みの高の満足基準も自覚できず 
肯定的か否定的かで生き方を決めるより どっちにどの程度積極的であるべきかかの見極めが大事ではないかと思う

超越錯覚人はなぜ斜にかまえるか 新評論 1992.1
田島隆男ブログ http://blog.livedoor.jp/cs_taji/archives/693733.html
と 出版案内を紹介しておきます
この本で扱う内容は虚偽論中心の論理学のレポートに5年間で6千以上接するうちに偶然発見されたものです。それは日常の何気ない態度と突発事故体験との間の奇妙な符合から引き出されたものですが、恐怖と不安に代わる人間の第3番目の危機対応様式であり、また科学と宗教の間のミッシング・リンク(失われた環)ではないかと思われます。
1章 問題失恋と快感とバイク事故;
2章 トリミングとコーティング;
3章 手掛かりブリッコ・モデル;
4章 重層化ひょいひょいと枠外へ;
5章 にせの超越;
6章 突発危機人はそこで美と静を見る;
7章 現実は一体いくつあるか;
8章 夢でも幻覚でも錯覚でもない;
9章 枠外の笑い;
10章 つじつま合わせ;
11章 びっくりパーティとロシアンルーレット;
12章 視点、視面、視体?;
第13章 客体化と体制化;
14章 図や言葉にならない知識;
15章 宙づりの自

この他 KANTANの日記 なる著者自身のブログで2005.4.8の一回だけの書き込みがあります 現代の全体・・のことで
拙著に対する反響 http://d.hatena.ne.jp/KANTAN/

*** 一先ず問題について 流石に哲学だと理解できなかったところもありましたが分かったことにしておきます

 

2008/4/6 「死を覚悟でやって欲しかったことが」

読む前の疑問 直感 そしてどうして能天気な自決に辿り着いて それを実行せざるを得なかったのか
予想していた通りだとマイクは今のところ勝手に理解してしまっている
マイクは観念でなく 勿体ないという他人事でない実感と 多分生来の恵まれた性格と育ちを羨ましく思うことと ご友人ご家族の理解に恵まれた為に それに応えるべき使命まで背負った 社会的使命感のある方であったのだと 敬意を持ちました

多くの書評は 理解と いつかは哲学者の理想に向かって行くと信じようとされていて 否定的な評論はない
未練の処理方法を未練なく生きることだと済ましているだけのようなのは一番の不満であるが マイクにもうひとつ残念なことは 須原式自死を理想とするだけでなく 安楽死や緩和死や尊厳死を絡めて 現在の死の諸問題解決法を論じ示して欲しかった
と言うのは この問題すら社会的に纏まらず 氏のようなインパクトある哲学や実践が待たれるからです
死を覚悟なら 死を賭けて・・・

昨日の3冊の著作書評の後 今日は安楽死と尊厳死をサイトで読んでみた
尊厳死法制化を進める会と阻止する会の了見が噛み合わずにぶつかり合っている
何事もそんなもんだと肯定すれば いいつかは良い方向に行くのだと言う肯定主義者の氏はこれを無視し論じないのではないでしょうか

清水哲郎 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/cleth-dls/euthanasia/index.html
他いっぱい立派なサイトがあって言うことは同じなのに 結論は法制化と阻止の観念に分かれる
氏はそのような観念を一番嫌っておられるのですが 衆愚の読者としては一度考えてみる必要がある

死そのもの実体もサイトで覗いておくべきである

現代の死 http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/gendainoshi.htm
死の現実がよく分かって これからのマイクなりの思考にとって大いに役立ちそうである

 

2008/4/7 「1・2章は 3先人に続けと語る」

一気に読み終わって 今更もう一度始めから読み返しながら順次要訳コメントすることはしたくないが これから部分的にでも読み返してみることにします

それにしても 著者の既出版著書を 本当は先に読んでいた方がよかったかも知れないし その方が自死のベースになる哲学性を知ることができる
本書は大衆向けを意識していて深さや言い尽くしていないところがあると思うが それも前著作によく見える


1章 三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテス、それぞれの不可解
世界の偏見
話の手順
三島由紀夫の謎
伊丹十三の不可解
ソクラテスに関する疑問
情報化され民主化された国際商業都市
三者三様の異様さ
後追い自殺

*** 三人の不可解な自死の見掛けの背景と 本人のそうではない本意を成程と思わせるべく語る
アイドルの後追い自殺のようには 彼らの死に続いていないのは 一般人が彼らの死の理由と死の受容のあり方を理解できていないからで 本書で理解が進むと多発する筈であって それは全く健全と言い切る

*** 話の手順として 自死の理由 未練の処理法 決断の過程 死の不安恐怖危惧への克服と対処法 を述べるとあった
未練の処理法に最も関心があったので ついつい先読みしてしまった

ソクラテスの死 ジャック=ルイ・ダヴィッド作(1787)
2章 なぜ彼らは死んだのか?

ソクラテスの場合
自死者に対する偏見
六番目の可能性
ソクラテスにおける死の能動的受容
間接的自殺説
ソクラテスの最後の言葉の謎
体感覚で考える
哲学の教科書的前提
確認
三島由紀夫の場合
牽強付会
老醜への嫌悪
伊丹十三の場合
老衰も自然死も嫌だ__それぞれの苦境
伊丹十三の大急ぎ
三島由紀夫のお誂え
ソクラテスのチャンスの到来
単純明快な普通の理由
凡人の勘違い
恐ろしい自傷行為

*** 六番目の可能性とは 本書の一般人でも通用する自死のことで 「もともと明るくて陽気な人間が 非常にサバサバした気持ちで 平常心のまま 暗さの影も異常性も無く つまり人生を肯定したまま しかも非常にわかりやすい理由によって 決行される自死行為がある」とする自殺のひとつの理由を言う

*** 三者に共通の積極的死の受容が 死の哲学練習 死に狂い 楽しいうちの死にあることを また共通した能動的受容とも言う

この章の最後に 本書の一番の野心である観念でなく実感で未練を断ち切り どう苦悩と恐怖に立ち向かうかを 次の3章に提示するとある
やっと 未練についてがある

 

2008/4/7 「3章 とうとう未練の断ち切り方を」

とうとう やっと そんなことが出来るのかなと思っていた未練断ち切りについての章に入る

3章 「未練」と「苦痛」と「恐怖」

未練について
「極み」の理論伊丹十三の幸福
自前の極み
機嫌良く、はしゃぎながら
三島由紀夫の悪所通い
足るを知るソクラテス
クールでない私
もう死んでもいい!
照れるけれども、「愛」について
「極み」と「癒し」について
人生の高と自分自身の高
読者からの仮想的反論
それでも残る反論
彼らは、「苦痛」、「死そのもの」、「死後」への危惧ないし恐怖をどのように克服したか?
ソクラテスの快活
三島由紀夫の猪突猛進
状況と体と思考の相関性
夢中になると他のことは見えない
より素直な見方
嘘っぽい場合
まとめ


*** 期待した未練の断ち切り方は全く無視されて いきなり極みなる論に転じてしまっている
マイクには逃げとしか思えないのですが 氏には元々未練というものに無縁であって 人生の極みや 高にしか嵌っていない

*** その極みの理論は 普段から感動し極みに達することができる伊丹十三が 自前の極みを他人と比べて感じ取り 幸福を自己主張するようなものだと

*** 三島由紀夫は色々の極みにこだわりなく達するタイプであり 足るを知るソクラテスも 未練とは縁のないタイプとする

*** そして氏は自らを 変に納得するクールで不満のない極み人だと
人生の高に納得する境地に達する年齢だとも言う

*** もう一つ大事なことは 彼らの体による価値判断が 未練を断つことを可能にしていると
夢中になるとで体が他のことを考えず死を快く受け入れると

*** 最後にまとめで 今後の研究のために この章の後にも色々述べる補足理由を五つ列挙している
しかしマイクにはどれも能天気にしか読み取れない
これ以上は読者諸氏が考えるなり研究するなりせよと開き直る

*** 次章では これらを根拠に 死の能動的積極的受容のための一般条件を問題にすると言う

 

2008/4/8 「4章 5章で 人間の可塑性を説く 」

4章ではいよいよ 死の能動的積極的受容のための一般条件を問題にすると前章末で意気込んでいた

4章 死の能動的受容と受動的受容

五段階説
受動的五段階説
死の先取り
数千の実証事例
能動的積極的受容の五段階説

観念的知識と体感的知識
「観念的な死の受容」と「体感としての死の受容」
「死」を語る資格のある人
非当事者、結果論者、一見豪快で爽やかな暴論、一見謙虚な奇麗事
奇麗事と地獄
脅迫と倫理

「二人称の死」と「三人称の死」
私にとっての「二人称の死」
母親からの遺産
もう一つの二人称の死
私にとっての「死」の体感

*** 一般的な死の受容を説くロスの報告と ハイデッカーの死の先取りを例に 消極受動と積極能動の死があることを説く・・なるほど

*** 後者は単なる先取りでなく武士道で実証のあるあっさりいつでも腹切りできる心のありさまを言い その心の枠組みを本書で現代化すると

*** ロスの受容五段階説に張り合って 須原式五段階を 高の認知・死の体感知・主体性・キッカケ・行動 になると説く

*** その認知と知は 観念的でなく体感としての受容であり インテリにはなれないと説く
地獄のことは考えなければないのだ 梅原猛は性悪説の老婆心でタチが悪いとまで説く

*** 母の死では ロスの死を全うして自ら完全に受容して死んだことを見て 氏に お前もできると教えてくれたと
義父の死には 三人称の無責任を感じて ともに他人の死の人称的意味を体感したと 

5章 自然死と事故死と人工死

自然死は悲惨__専門家の見解
「自然死」と「事故死」と「災害死」
「事故死」と「災害死」
私の体質

虚無主義と厭世主義
「老境」を否定するのは虚無主義と言えるか?

受動的自然死派の人々
自然死のみを肯定し、それ以外を否定する人へ
受動的自然死派
死に関して意見を持ちうる人へ
パリサイ的偽善
未来の人の死生観

*** ヌーランドの死の分析通り 自然死も事故死と変わらず悲惨で同質と言い切る
事故死が嫌なら自然死も避けるべきで そうでないのは実態を知らないだけだと言う
マイクは氏が未練を能天気にも無視してしまっていることをここにも見てしまう

*** 能天気そうな氏でも閉所恐怖症的で また尿管結石で死にたいくらいの体感経験があり 自殺の気力もないまま世話になるようなことはご免蒙りたいと言う

*** 人生は肯定すべきところと否定すべき部分があって 全体を肯定するのは無理があって宗教や虚無主義になる
老境を否定するのは虚無主義でなく 普通の人の反虚無主義そのものだと・・・?

*** 受動的自然死は 善人往生神話であり 宝籤を買って人生逆転狙うのが間違っているように 老衰死も間違いだと

*** 西洋的偽善である積極的自然死派を敬服するとしても 他人に主張するのは越権行為で 自死者を弱者として哀れむべきと・・憐れむだけでは差別するだけの 他人と比較して極みを納得するだけの未練断ち切りではないか

*** 未来は人工死に確実に向かっており 自死願望は病的ではなく 人間は進化もしある部分は退化し 工夫と順応で 人間には可塑性があると

以上が自死自決の道筋で これこそ自然な人生だと満足されているのでしょうか
ハッピーな生を老境まで通したラッキーな人生を 最後まで全体をハッピーで終えたいと考える人生に羨望はするが それだけがハッピーな人生ではない筈です
このままではいつ自決すべきかを議論尽くしていません
人生の浮沈こそ人生の味わいがあり そのようなことにはあまり触れていないようです
最後の自決にしても 未練を残して死ぬのは勿体ない筈だし 未練の可能性を考えないで済まそうとするだけのようです
生の可能性のない時の尊厳死や安楽死のことも無視しているように読み取れるのは 弱者軽視のように思われますし ご自分自身が弱者になることに耐えられないことを示しているように取れます
もっともっと議論するご友人に恵まれていた筈ですし 本当に勿体ないと思います

 

2008/4/8 「6 7 8章 武士道老人道 日本人の使命」

いよいよマイクが嵌る 陽明学と必殺老人道 の参考になるであろうと期待する この本のクライマックスか


6章 武士道と老人道

ヤクザ、武士、老人、それぞれの苦境
ヤクザの指詰め
武士の切腹
忍ぶ恋と本物の男
「老年」の苦境

人生は恋人
人生への泣き言
明るい人生
滑稽で、清清しくて、明るい武士道

「葉隠」__日本人の聖典
時限爆弾
西洋人と現代日本人の切腹に対する理解
喧嘩両成敗

*** 武士もヤクザも自尊心と主体性を維持する面子で 死にたがりや小指切りたがりになる
氏は 明るく積極的に生きるために老人にも死にたがりを勧めて 面子を維持せよと本気で提案している
未練を捨てることは自分を捨てることではないかと武士道やヤクザファンのマイクにもいまだ理解できない

*** 老人道には泣き言は要らない 恰好よい人(生の人)ほどあっさり自死すると 自死は雄大で明るいと褒め称える まるでこれからの自分を飾るように

*** 武士道は個人主義であり 今の時代の生き方にマッチし これから爆発すると信じ そうなるための本だと言う
武士道もヤクザも自己中で 自死する氏も使命感に縛られた自己中能天気だと自己証言されているようにマイクは理解する

7章 弊害について

自由は怖い
なしくずしの自由
裁量の問題
時代の趨勢
理不尽な暴力のコントロール

共同体
いざと言うとき、意識の前面に躍り出る共同体
自殺は危険?
「自決死」への敬意
「武士の自決」と「老人道を生きるものの自死」
ある老人の死
老人道と武士道の違い
もう一つの弊害
神と仏

***安楽死について軽く論じていて なし崩しに当たり前になるに決まっていて 問題にするようなことではないと

*** 死を覚悟してから強く共同体に生きていることを意識した
迷惑をかけない自死であれば 自死への敬意を共同体から期待したいとも
サラリーマンも切腹覚悟で自尊心と自主性を持てと言っているごときでもある

*** 個人的自死と共同体的自決の違いと 老人道的自死が武士道のような痛みを必須としないことを

*** この章の最後に 団塊の世代は時代を破壊してきたので この世代に自死冒険を期待したいと締める

8章 キューブラー・ロスキリスト教徒の苦境

「聖女」であり続けることは難しい
人間の両面性
人生の究極の目的と人生で学ぶべきこと
キューブラー・ロスの功績
体の声
誰しも「無償の愛」の中にいる
日本人の使命

*** ホスピスの聖女 ロスも天国へ行くときの遅いお迎えに神を呪いだしてしまった事実を取り上げ 人の二面性を説く
聖職と言う幻の極みに達したかもしれないが それも実は個人的なもので もっとある極みを無視したのは 体の声を聞かなかったからだと

*** なんでも夢覚めぬうちに早死にするのがいいんだとも言っているが それこそ氏らしくない3人称的観念的発言と思う

*** 信仰が意味を持つのは体の奥底から信じ込む場合だけであり 他力を勧める人は口先だけで奇麗事を言う人であると断言
無神論や自力を説く人は マイクにはただの自己中としか思えない

個人的主体的行動としての自死は ヤクザや武士道の名誉型個人主義であると言っておられる
マイクも美しいと憧れるが 人生はただ個人だけではなく 人生が美しく輝くのは名誉だけでもない
マイクは無神論にも信者にもなれない宗教ファンでしかないし 自力にも他力にもすがって生きてきたので なかなかどちらがいいか結論できない
マイクは氏の唱える可塑的人間のようなのに 体感で未練を捨てられない

氏は 団塊世代が現状の自死を含めた保守性を破壊してくれると期待しているが マイクのHPでは 他人に厳しく自己に甘い 私生活主義者で 彼らも日本をダメにしたことを懺悔しない世代だと嘆いている
彼らに懺悔と 死ぬ前にするべきことをする必殺老人道があると言いたく まだまだ観念的で無責任ですが 納得し体感し説得し 一緒にやりたいと思っている
そのようなやり残しがマイクの未練で捨てられません

いよいよこの次は 最後の章 補助的考察 で終わる

 

2008/4/9 9章 超越錯覚・変性意識に至る哲学者を見る」

新聞の書評を見て直感した 哲学者への疑問と共感を 氏が好んで使う一般人であるマイクは 恐る恐る読み始めて簡単なコメントをお畏れながらしてみた

盛岡正博大阪府立大教授の書評の最後には ここまで確信に満ちた自決の決行者を われわれは正しく批判できるのか 本書は現代人ののどにつきつけられた刃である とあった

それほどの完成された哲学かと 錯覚でもいい 刺激されたお陰で 最後まで読み通せた

9章 補助的考察

神秘、大いなる存在、魂、あの世、神、など
問題を大きな文脈に埋め込みたがる知識人
動物愛護運動
観念的な奇麗事

虚無主義にも厭世主義にも関係のない「人生を肯定する自死」
要約
罰系神経系と報酬系神経系
罰系優位のうつ人間
答へと至るための諸疑問
答は簡単である
厭世的格言の正味の中身

このあと 最初に読んだ日記風の10章に続く

*** 超越錯覚(例えば死にそうになっても怖くない)や変性意識(自己意識が拡大していたりして異様な神秘体験をする)を研究しているうちに 異様なことに「あっさりわからない」ですませるようになったと

*** 死も考慮に値しないと単に思ってしまうよう(身体化した考え)になったと言う
空海の心境であり を否定も肯定も期待も恐れもしなくなったと

*** 神や自然の完全性や大切さを論ずる知識人者の無神経さと不可能を説く
大きな文脈に埋め込み 問題を拡散する知識人の言う神の言葉も 当人の主体的真実でしかなく 体系化するのはおかしい
ただ大事にしようだけでいいのにと言う

*** 万物有仏を説く梅原猛を主体的判断の観念論でしかなく無意味だと
思い込みに囚われている他の論者を挙げ うすら寒いと言いながら 自らの思い込みには無感知のよう
能天気野郎の知識人の格言をリストアップしながら そのような罰系優位のうっとうしい社会なら早く死んだ方がましだとも

*** 彼らの言葉は 身にしみた苦労をしたものが振り返って人生全体を総括しようとしたに過ぎないと言い それどころかそれは老人重病者苦労人を生きるに値しないと言うことになるとも
頭が納得しても体が納得できないので 一般人にはそれらの格言はただの癒しであり 直ぐに忘れてしまう無意味なものと

*** 人生は全体として意味があるものでも無いものでもない
ある部分がある人に意味があり 一面的に全体を判断してはいけない
特に一般の青年や壮年には意味のない言葉より こだわりを捨てていい人生とした後 その先はだれも保証できないので その少し前に考えるために 本箱の隅において参考にして欲しいと結ぶ

安楽死など 死を考える機会を得た
自分のケースを刻々にシミュレーションしながらの準備がそろそろ必要と自覚させて頂いた
何よりも未練を残すことが 自己中な人生の高を極めるために大事なのだとマイクは納得させて頂いた

氏は何故そうしなかったのか 勿体ない 勿体ない

 

2008/4/10 「勿体ない 勿体ない」

一般人に好意的な意識を持っている所為だと思うが 一般人にも割と軽く分かり易く 成程と思わせていただける書き方で また丁寧に率直にご自身の考え と言うより思いを述べ語っておられるので 一気に読み込んでしまったことからでも分かるように 読む前の直感が殆ど当たっていることを確信しました

悲惨な人生がこの世界には一杯あるんだということを日毎の新聞やテレビで見ているものだから 氏は全くと言うほどそのような現実部分を無視しているようで 全くハッピーな人生からの死だけを取り上げ そのような羨望のハッピーな人にできたレアケースの死のあり方を 尚更殊更に羨望するものではないか と思った

しかしアンラッキーに追い詰められて自殺したレアケースの死と果して何が違うのか
それを選んだ人とは 人生の悲哀と幸運の度合いが違うだけではないか
生そのものに違いは大きかっても 死にはどんな違いがあるか マイクにはまだ分かっていない

尊厳死・安楽死について考えたことはなかったが これを機会にHPで知って 尚更分からなくなったので このあと少しは弱者の生とも合わせて考えてみようと思う

氏が言う 死に方を 自分で積極的に選択し 自分から受け入れるべきであるということは理解できて 色々条件はあるが 時代とともに思想や技術でそれがより容認されて行くだろう

ただ それだけのことを 今容認されていないのを嘆き いや全く何事にも嘆かず 脳天気のままでよいとする氏であっても 使命感に燃えてこの本とご自分の自死をセットの事業で示そうとしたのにはマイクは 羨ましいくらいの敬意を感じます

しかし勿体ない 勿体ないというのが直感的に一番気になったことです
何が勿体ないかは別途話さなければならないでしょう
ノーベル平和賞環境活動家マータイ女史も嘆く

敬意を感ずるもう一つは 本書の大事な論点である観念論の軽薄さを説得されるところです
そのために哲学は終わった 哲学になすべきことはないと インテリの虚しさを強調されておられることには大いに同感です
氏は他人事のような哲学者の観念論を評価せず マイクもそのような学者に疑問を持っている
氏は そのようなタイプでなく それに拘り実践して見せなければならない自縛に嵌る

観念論だけで学職を守っているだけのような日本の学者さんに疑問を感じているマイクは 観念論的学問で終わってしまっては 税金と授業料で遊んだだけではないか 学んだあとは有意義な成果に繋がるような社会還元努力が必要でないか と思ってしょうがない

観念論や思索は必要な行為であるが その使命を忘れてはいけない
行為に繋がるような努力が成果を生む 陽明学はそれを言う
陽明学のひとつ 武士道のある面に嵌ったのはマイクも同じだが 嵌ってはいけないところもある
任侠ヤクザや必殺仕掛人 戦争軍事 戦国歴史に痺れるのはいいが 全部に嵌ってはいけない

まだまだ考え尽せていない 陽明学の行為とは何かを考える中で マイクはその一つの姿が仲間作りであるのではと考えている
儒教で終わらず実践に至った先人は皆 塾を作り仲間を増やした
氏のご友人が沢山いて しかも尋常でない氏の事業について真摯に相談を受け 共感されておられる仲間に恵まれたことも マイクの羨望の一つです

でもそれはそれに自縛された 氏の死 になったように思えてならない
武士道に嵌り 友人に恵まれれば そのような道しか 意地あるプライドの人には許されないのではないか
誇りある氏に敬意を感ずるが その死には違うものを感ずる

 

2008/4/11 「勿体ないという未練がいっぱい」

共鳴し敬意を感ずるところも多いが 疑問や 何よりも勿体ないと思ってしまうことがマイクの読後感である

何がどうして勿体ないか それは 哲学者としてやるべきことがまだまだあったように思えてならないし それは多面に敬意を感ずる須原氏でないとできないと思うからです

観念論学者を非難するだけでなく 梅原猛に食って掛かることができるのは 氏しかいない
マイクはそれをしたいが只の一市井人では意味ある行動にならない
学者の力は大きく 責任がある

安楽死についての議論は 尊厳死が当たり前になってゆくだろうと言うことで済ますのではなく 積極的議論と推進活動に繋げて欲しかった
安楽死容認の確立なくして自死の社会的容認はない

その時どうしても 弱者の生についての倫理的哲学も必要で 氏のようなハッピーな生死の 極めてレアケースだけの死だけを語って済ますのはずるいとしか言えない

本文で何度も繰り返されている やがて人は順応して行くので  と言う他人事のような語りは マイクには脳天気としか思えないが 羨ましくもある
どうしてそういう得とくするようになったかは 著者の前作を熟読して何となく理解できるかもしれないが 体感できるには相当の修行が必要であろう

そのような天性なのか 学問と修行で得とくしたものかは分かりませんが それだから氏には氏しか出来ぬ まだまだやれることがあると思います

脳天気に他人事のように言いながら この自死についてだけは使命感を持って完遂された
これは不思議な疑問で マイクには 自作の芝居に嵌って 知人に見てもらうという自縛芝居としか思えない
演ずることで体感的快感のうちに 自己満足し自己中で果てる
羨ましくても極めてレアケースな 流行ることはない演劇ではないか

観劇されたご友人は 果たしてどのような観賞をされたのでしょうか
拍手やアンコールをされたのでしょうか
読者であるマイクすら 刺激され興奮し 何か虚しさも手伝って ここに何かを書かずにおられなくなった

誇りある意地にも敬意を持つが やっぱり自己中でラッキーな私生活主義者ではないか
戦後の日本をダメにしたのは我々ではないかと言う強迫観念は必要ないと言い切るだろうと思われる氏に マイクの思いである必殺老人道を期待できないが 闘うものが他に哲学的な何かがあった筈だと悔やまれる

 

2008/4/11 「私の命は私だけのものか」

安楽死尊厳死についてどうしても考えないと この自死の問題は完成しないのではないかと思い サイトで勉強した
病死だけでなく 自殺などを含む死そのものについても またについても無視できない
貧困や病人や障害者ののことも無視できないことに次第に 確実に観念的でしかないのですが思い至る

今日の新聞に 4月4日からの一週間で 京都市内で3人の硫化水素自殺が続いたとあった
昨日の女子大生は二週間前に友人に流行っていると話していたらしいが 「生きるのが面倒くさい」と遺書にあったという
自死と自殺は心身の条件が違うことを強調し 極みに達した人と達していない人の違いを 差別していると思われるように氏は語っている

面倒くさくなるほど満ち足りていたのかも知れない自殺であっても 自死と一緒にされたくないと氏は言われるように思う

死についての定義(4月6日に記した 現代の死 参考サイトより)

尊厳死とは 「生きた物」としてではなく 「人間として遇されて死に到った死を指す
つまり 自決 委託自死・・・・殺人委託ではないか

安楽死とは 苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに 意図的に達成された死 「死なせる」行為
つまり 尊厳的他殺 ・・・・殺人とはどう違うか

自殺は ウィキペペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%AE%BA に詳しい
自殺を強いる文化・社会状態への対策が緊急に必要とある・・・・必ずしも自発因ではないが自決自死ではないか

他に病死・脳死・事故死・殺人死・刑死・堕胎死 など多様にあるが 生に比べて  社会性が低く 死についての解釈は割と単純なように思う
社会的問題になっている尊厳死安楽死に較べ 須原タイプの自死と自殺の違いも死そのものは単純で個人的ではっきりしないように思う

それに比べ 自殺者を含め その生は社会的な複雑で質的状況は複雑多様で社会問題としての現実的な解決多難な側面を一杯抱えていると思う
身体の生命格差 経済格差 文化格差など 社会的倫理的側面が人生を多様化している

従って須原式自死のような生と死をセットで取り上げても レアケースで一般論ではなくなる
一般論観念論ではなく 成行きに任せた方がよくなると言う氏の持論であっても レアケースのハッピーラッキー勝者の理論だけでは 3人の先人に類する人たちの 単なる分析でしかないように思う

哲学は観念論でも一般論でもなくなく シンプルにこうあればいいと言う体感できる結論を導くべきだと言っておられるように マイクもそのような真理を求めたい
死がシンプルであるように 生も多様であってもシンプルな原理で理解できる筈で それが哲学者の氏の目指す 一般人にも体感できる哲学とだと言っておられることにマイクは共感しています

それにしては シンプルと言うより部分的すぎることは明白です
もっともっと広く思索し シンプルに生と死をセットで理解する哲学が欲しかった
それには価値なき 意味のない人 と言われる生から 心身健全な 生と死を 生命倫理として同時に語られなければならない

その答えは 私の命は私のもの なのか それとも 私の命は私だけのものではない か そこにあるように思う
観念論でなく体感で理解できるのは なにも前者だけでなく 後者もできると思うのですが マイクはそう思いたい

 

2008/4/11 「一応読み終えました」

一応全部読んだが 本文の途中に 余談 として逸話が何編かある

勝新太郎
首切り朝右衛門
川端康成の自殺
ある悲劇
「普通主義」

最後には 注記があって 7章までに16のがあり 15頁を当てている
7頁にも亘って詳細解説している項目もあるが 熟読せず一気読みしたので目を通していないが 最後にこんな風にある

したがって 常識的な判断で未来を悲観的に予想する場合はほとんど外れるものと心得るべきではないだろうか

つまり 無宗教であれ性の乱れであれ 自殺の流行や犯罪の横行であれ 一時は隆盛を極めても やがて人間は新しい文化・習慣・法律を形成して順応して行くのである
人類は今までもそうしてやってきたし これからもそうするはずである

要するに その種の人間の心の問題は 今の何かよくない事情から何かを予想することではなく 現状の悪い部分を改善する努力だけが意味あるからである

改善のない観念論を否定するのは 陽明学に嵌るマイクとも共感する
しかもマイクは成り行き任せが一番効率がいいと直観し体感できるるが しかしそれは世の中が 多様な人間によって成り立っているからであることを忘れてはいけない
心配性の観念主義理想主義者と 楽観的世俗主義現実主義者の共存で 或いは悲哀や犠牲の伴う闘いのもとで 結果的に人類が本来生命維持を否定しないかのように あまりにも時間をたっぷりかけて やっと進歩するのである

自分だけの生ではない 諸々の生とぶつかり合って自分の生を体感してこそ 人間として生きた生である
ひとり悦に入って 自分に嵌って 友に自縛してもらっての死は羨ましいが美しくない

死の恐怖は氏の言われるように 時代が解決の方向に進むであろうし もっともっと観念論の討議を進め急いで 社会的なコンセンサスを得て容認される社会となる必要がある

そのためにこの勇気ある事業が役に立つ日が近からんと願う

 

2008/4/12 「現代の死を広く認識」

この本と著者についてもう少し気になることがあって 読んだ時のメモがある
しかし大体のことはこれまでに十分疑問として 意見しているので 取り敢えず話を変えてみる

前にも紹介した下記のサイトから 要点だけを転記し マイクの補追もあるがこれを眺めて現代の死を広く考えてみよう


現代の死 http://www.sogi.co.jp/sub/kenkyu/gendainoshi.htm

年間100万人の死=悪性新生物30万+心疾患16万+脳血管疾患13万+肺炎10万+不慮の事故4万(10代のトップ)+自殺3.2万(230代のトップ その8割が鬱 不自然死 遺族負荷)+老衰2.3 の順

高齢化率65歳以上20% が死亡者の80% 658034% 80歳以上46%
昭和初期は80以上5% 昔は人生途中死で死に緊張感 今は75から介護で最後に死 管理と消費の病院斎場 生活離脱 別処理化 

不平等な死 地域共同体の死から個人化する死 不都合な死から納得できる死に
都合のいい生と 死の難しい不自由な人生 いい死は結果としてあっても目的とはできない現実に須原氏がチャレンジか

予告された死 安楽尊厳死 延命治療 臓器移植 人体の商品化 
知的障害 脳障害弱者 堕胎胎児 の人格人権 生存権の否定
死は自然 怖がる不自然? 苦痛を怖がる 死は覚悟

判定者 施行者の責任
近親の負担
脳死 植物状態 部分死
不可解な矛盾 死ぬ権利と安楽死 安楽死殺人幇助 尊厳死殺人幇助
不適切な処置死 依存度 自然死
医療進歩が不幸でもある

デス・ケア 遺体(エンバーミング) 遺族(グリーフケア)
生物的 社会的 宗教的 家族的 死   個人化 共感の希薄化 無神化

死はりアリスティック 死への準備不足 教育不足


死んだ方がいい死 だれが判断し誰が実施するのか
ケ−スバイケースの処置 法制化
致死 知死 値死 ・・死 色々と多様

考えるとキリがないので今はここまでに

 

2008/4/13 「死に行く前に 老人道を考えるべく」

死についてサイトを眺めてみると 死の殆んどが老人であることがはっきりする
須原氏は老人の領域に入って それを避けるように自死した
ある意味で老人を排除する社会傾向そのもののように直感していた

マイクもそうでないととても言えないと つくづく感じた
このままではいけないと 日頃避けていた老人問題についてサイトで眺めて見ようと思ったが 死についてもう少し考える
内田麟太郎作/沢田としき絵
子どもたちにプレゼントを配り終えたサンタさん 嬉しいはずなのになぜかさびしくなりました そこで・・・ 老人問題を思わせる渋いテーマ

65
歳以上の 人口の1/5 が 65歳以下の5倍の死となる(25倍 死に近い?)
これは個人的にその覚悟を急がないといけないことを意味する
氏はそれを逃げた

昔は人生の途中死が普通であって いつ来るか分からぬまでも覚悟し 突発で短期に致死する生き方であった

それゆえ昔の死は宗教に依存し共同体意識も必要で 社会的風習でカバーした

今は 個人化商業化商品化すらしていて 未完成な社会福祉や制度で他人事のように無機質に別処理するしかなく 社会問題化している

今は若年者の病気は他人事のように 案ずることもなく 死について考え準備することなく世俗的に生き 逆に老人になってからは死が迫り集中すると言う予測できる人生に近づいてきて 急に考えざるを得なくなる

昔は諦めの運命的死であったので 日頃の覚悟と準備と生き方があり 殉死や武士道が存在した
今は計画的個人的死が容易な時代になっているが 老人になるや老人道を考え始め 積極的に準備と未練を解決しなければならない

老後の道は積極的に考え認識し学んだものと そうでないものによって 積極的能動的自死か 消極的受容的自然死か あるいは社会的死というものがあるかも知れない
その選択は多様であるが社会的死として容認されるであろうか

生理的寿命と社会的寿命の差を社会的だけでに決めることは避けなければならない
共に伸ばすのと どちらかに一致させるのと 両方早めるのと 社会的コストによって死の倫理が左右される可能性が怖い
つまり財政的合理化や 商業主義に走る

死ぬまで現役化などを社会的に考えると 働かざるもの生きるべからず と非健常者非生活力保持者等の老人無視や死が社会的に容認される

死について考えたが 老人についてその介護や生活保護などの考えについても同じであることに気がつく

 

2008/4/13 「老人問題を考える」

死を考えると 殆んど老人の死の問題であった
老人の死について考えると それは殆んど老人問題であった

中でも老人問題を 老人の社会死と考えると 老人の社会問題であることに気づく
個人的な死を個人的に死に行く前に 社会的に考えることは観念的で無意味なのであろうか

老人の社会的な問題として考えるときは 老人だけでなく弱者一般についても同じ考えをしなければならないし 老人の社会問題を考えるためにも大いに発展させてくれそうなので少しは考えてみたい

その前にここで 一般論としての老人問題のサイト
曹洞宗 http://www.sotozen-net.or.jp/gendai/seimei/seimei200504.htm
があるので 転載禁止なので キーワードのみの拾い込みとして 下記に記す

豊かで医療が行き届いている社会での問題
農村型社会から都市型へ 生活様式 家族形態 同居で面倒を看る子のつとめ から 核家族へ
今も儒教的道徳で男性優位で女性の役割 介護力の弱体 都市過疎ともひとり暮らし 寝たきりが増える
老人病院の姥捨て山化 70−90 老人医療の無料化 老人性精神障害者 営利目的化 (悲惨な公害?)
社会的問題としての捉え方欠如に原因
40代女性の25%は老人介護 30年には専業主婦の50% 家庭内解決は無理
老人自殺 3世代同居が高く 一人暮らしは低い  居場所失う孤独感
多くの老人とともに生活する社会のあり方 確立されていない 「老いは家族が看るのが当然」の文化
高齢者の心身の健康や生活の安定 社会の仕組みや制度 高齢者福祉の課題 定年の雇用創出 生活保護 住宅確保 介護 年金や医療保険 若い世代が支える仕組み 世代間合意形成 老人に対する差別意識
行政的援助の問題でなく 「老いとは何か」「人間が生きるとはどういうことか」根本的な考えの構築と社会的合意
人間を生産能力優先で評価 弱者を切り捨てる社会の価値観
老人が将来に生きる価値がない社会
老いを排除する社会 共存する社会
近代社会の価値観

*** 私たちは何故老人を嫌い 老人を排除するようになったかは 近代社会の価値観と深く結び付いている とあった
文化的社会的背景を社会学者が明らかにし 氏のような倫理哲学者が観念論を闘わし 改善策を成り行きで出すのではなく 行動で戦い確立して行くべきもののように思う

*** 氏はその面倒を避けて安易に走ったとしか思えない
面倒と言うより不可能なのかもしれない
闘える人が戦わない社会は 人間の価値観を極める努力の少ない社会となって 社会的に不幸である
哲学者の大切さと同時に その努力が大切なことは 現にある 世界にある社会的格差を見ればわかる

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2008/4/14 「人権問題まで 身障者の目から」

死を考えると 実は老人問題であった
現代の老人問題を考えると それは社会問題としての人権問題のひとつになっていて これも無視できなくなる

人権問題まで行くと 憲法第13条の幸福追求権にある基本的人権にまで広がるので ここでは人権の中でも 障害者問題についてのみ考えるのも 老人問題を比較 客観する上で大事なことのように思う
身障者マーク

老人問題と障害者問題の大きな違いは GDP または福祉予算で見ると 日本人国民の価値観と歴史の浅さ つまり哲学の浅薄さが定量的に分かる

建築投資GDP 83兆円 GDPの16% アメリカドイツの倍以上
建築(土木を除く)国庫負担 30兆円 GDPの6% 特別財源談合既得権
を参考にして

医療GDP 40兆円 GDP比8% 100兆円は欲しいと医師団は言う
国庫負担 6.5兆 1.3% 少ない アップし完全無料化するべしと

老人福祉予算 1.8兆  ドイツの1/5 スウェーデンの1/8
障害者福祉予算 0.8

誰かが儲かるところにしか目が向いていないことが分かる

1
億の人口として一人当たり年間消費が
建築に 83万 他に土木を
医療に 40

老人人口2千万として (65歳以上20%)
介護等に 9

障害者人口666万として (健常者に対し5%のマイナー でもなんと多いことか)
福祉費に 12万円

である

2006.6.22
の マイクの虚数の世界のHPのBBSで
医者の目と病人の目と第3者の目 現物主義者さんの投稿として

今日の新聞に、一人当たりでは国民健康保険を年間に37万円使用。しかし老齢医療は70万から100万。介護は160万くらいもと言う。よく考えると病人は凄い金持ちである。医者の目から見るとリッチなお客である。税金まがいの保険金を役人の如く湯水のように使う。
ここに病人を診る医者は、見かけ貧乏な老人であろうと医者には大金持ちに見えるのではないかと記事を見て気がついた。・・・・とある

老人人口は身障者より多く 商業化しやすい社会的商品にすでになっている
それとは関係なく老人も 市場の小さい障害者も 個人的にギリギリで生活し苦しんでいることとは全く関係なく あるいは利用されて 社会的に先行する
それが理念なき経済社会の怖さである

こう考えると 今時の死は 大きくは人権問題の一つとして 老人と非老人との共存と 夫々の生存の意味を主張し受容し合うべきことが憲法13に示されている
その憲法に言う人権体系なる理念の浸透と それを実現する統治機構としてのシステムの確立が まだまだ成行きに任せられない幼稚な国民的価値観であるために遅れている

身障者問題を考える手頃なサイトからの部分転記を下記に
同和教育 http://homepage1.nifty.com/hiroshi127/sub7-5.htm

障害・障害者に対する意識「ふつうじゃない」感覚のズレが物理的な壁ともう一つの壁
障害者を生きにくくしている社会
障害者問題を解決する上で一番大変なのは 健常者の多くが抱く・・はないよりあった方がいいといった感覚

障害を持つ人の側の問題
障害=不幸の自己意識
障害は克服すべきもの 頑張りを美談賛美
障害=マイナスが基本でなく 治すではなく画一的な障害者観に染まる 
健常者の価値観が反映 健常者側の視点で自らを

健常者側のルールで障害者の機会を奪い 同情し 『面倒を見てあげる』対象 「頑張感動」の対象 自分との比較対象

差別 訓練や手術を強制 理不尽さ 心の痛みはあったが
今は歩きたいという願望はない コンプレックス 「不幸な人間」に疑問 何が悪い 社会が悪い 開き直った アイデンティティーが確立
大多数と目立って違うものが障害者 差別や排除の対象 社会の価値観・考え方からはみ出し 社会構造からはみ出す
『個性』ととらえる社会 アイデンティティーが保障されている社会 根本的な「人間観」見つめなおし が必要
真のノーマライゼーション思想の定着のための積み重ね

今は腰痛で1カ月も這うしかできない老人マイクは 死だけでなく老人も 障害者も体感して しかも観念して思考してしまった
ハッピー・ラッキーとしか見えない氏には 死だけを超越感覚で越えられればよかったのかも知れませんが マイクには 現実に老人と障害を体感してしまったものだから こんな機会を得た
結果的に良かったかどうかはまだ分からない
考えない方が 知らない方が幸せだとは思えない性質なので どちらかと言えば損なのでしょう

 

2008/4/14 「社会の共存と 棲み分けと 融和」

人権問題は 憲法13条を基本的人権を守ると言う 単に人権擁護すればいいと言うことではないと気がついたのは 2-3日前のラジオ深夜便での 健常者に近づこうと努力する身障者と 自分の立場より視点を作り上げるべきと説得する障害者同士の話で知らされた

それは身障者のサイトでもそれを強く訴えていたことでもある
身障者を『個性』として捉える社会 アイデンティティーが保障されている社会 根本的な「人間観」見つめなおし 真のノーマライゼーション思想の定着

その通りであるが マイクにはもうひとつ考えとして纏まらないことがある
個性の共存とそれぞれの役割 夫々の存在意義についての価値観
価値観で済ましてはいけないようなことを感ずる

死に価値観があるかは分からないまでも 生に価値観を認めていいのか
老人の価値観 障害者の価値観を 個人的にでなく社会的に醸成される可能性がある
社会的にもノーマライゼーションしなければ意味がない
その社会的な怖さが 未発達な人間に感じられる
人は個人的でもあり現世的でしかない弱さがある

マイクは殆んど思索ができていないことに 個性は共存すべきか 棲み分けすべきか その融和はどのようになされどこまでなされるべきか
世界の諸問題の多くはその結論を政治や宗教に あるいは市場経済に頼るだけでは解決しないと言うことのように思う

思想のノーマライゼーションとは そのような思想抜きでは不可能ではないだろうか

動物は棲み分けして共存共栄してきたとあるが 人も出来るとこれからの社会は試されて行くのでしょうか
自分の足で調べ自分の言葉で語る今西進化論のすべて 私の進化論 今西錦司著

2008/4/14

「老人の武士道か 武士道の新老人であるか」  読後感

自死から始まって ついつい基本的人権としての生き方までを見渡す機会を得て ここまで書き込んでしまった

浅学の愚民に 何が出来る訳でもないのですが 哲学者の明快すぎる説法に少々むきになってしまったかも知れないが そのお陰でここまで展開できた

しかし所詮マイクには限界があって 尊厳死や安楽死の大凡を知ったが だからと言って自信あるビジョンを持って運動や活動をするほどの結論は得られなかった
機会があったらもっと賢者に巡り合い 確信を得て 核心の体感行動に至りたいものです
それがこの老人にとって どのような形になるであろうか

マイクが丁度50歳の現役サラリーマンの時 感ずることがあって 老人道をイメージしてしまったことがあった
それは武士道的老人道であって 別名必殺老人道であった
それを老人になるまでには追求しようとしたが 力量なく今も幸か不幸か未完成で 無責任な観念論でしかない

元々この本知った時 老人道の究極は須原氏のことかも知れないと思った
期待したのは 哲学者の氏が マイクの考える老人道に既に達しているのを願ったからで そうでなくとも大いに参考になると思ったからです
今となっては もっともっとご教授いただけないことが残念でしょうがない

誤解を受けるといけないので このことをここで語る前に 新老人の会 とか 新老人道なる言葉が気になるので そちらを先に調べよう

日野原重明
新老人の会とは
日野原重明さんの主催する会で 3つのモットー
愛し愛されること 創めること 耐えること

新老人は 5つの目標を掲げて活動
1.自立
75
歳以上をシニア会員 75歳未満をジュニア会員 老後の生き方を選択 自立と生活週間を社会に伝達
2.世界平和
戦争体験 世界平和実現
20
世紀の負の遺産 戦争 貧しさの体験 人類愛を忘れた生き方の反省 世代に伝える
3.自分を研究に
自分の健康情報を研究に活用
ヘルス・リサーチ・ボランティア 研究団体老年医学医療の発展
4.会員の交流
新しい自己実現の交流 心豊かな老年期
5.自然に感謝
過度成長不健全文明に歯止め 自然愛恩恵感謝

心豊かな老人道の会である http://www.lpc.or.jp/senior_soc/

新老人道 聖隷福祉事業団医師 阿部 政次
もう一つの新老人道は 著作になっている

内容 函館の地で長年医師として活躍してきた著者が 突然脳梗塞で倒れてから 見事現役医師に復帰するまでの壮絶な闘病記を折り込むとともに 死の淵から再起した著書が 老人も青年たり得る若返りの秘訣を伝授し 高齢化社会に生きる多くの人々に人生の指針を与えてくれる一冊
第1章 老いの未来これからの老齢化社会に向けて(今の老人福祉は間違っている;我が国の現状;脳の医学 ほか)
第2章 老いの病気脳梗塞に倒れて(医者が患者になってみて;突然の発病;病棟風景 ほか)
第3章 老いへの心構え明るくなるのも暗くなるのも心掛け次第(心に青春を;新老人;理想的老人像の追求 ほか)

後者は誰にでも出来ない壮絶な闘いの記録であるが いずれもマイクにはラッキーアンドハッピーな人生の勧めに思う
生き方の心得としては須原哲学に準じているように思う
ハッピーエンドの勧めではないか
或いはジョークで 不良老人の勧めを説いているようなものとしか思えない

マイクは彼らハッピーな老人に それだけの老人道で終わらないで欲しいとお節介に願う
マイクはたまたまラッキーな人でも 人は皆罪びとであるのではないか ・・・この話は後ほどに回すことに

2008/4/15 「社会的死を待つ 力なき老人道も」  読後感

敢えて阿部政次さんまでを ラッキーとか不良老人とまで言うべきではないかも知れませんが 力ある不良老人が 豊かな老後で自立せよ と唱えるのでは 当たり前すぎて物足りない

社会には 基本的人権がままならない弱者が五万といて 昔の姥捨て山 戦前戦中は非国民穀潰し 戦後の混乱期は厄介者 高度経済成長では役立たずの落後者 として地域や職場から排除されてきた
憲法は個人の尊厳を掲げるが 現実に愚衆ならずとも知識人経済人政治家まで この国民の心底からそのような視点は今も消えていない

多軍勢のインサイダーと マイノリティなアウトサイダーの力関係の構造は 歴史的に作られてきた文化である
弱者の生や死は そのような社会的生や死に繋がっていて 容易には解放されようとしない
それは力あるものからの解放なくして実現しない
ただの成行きに任せれば解決するという氏の能天気ではいつになる事か

衆愚民主主義社会は脆く 今も時代が後退していると思われる社会的傾向が潜在している
社会的生や死は 福利行政で高コスト排除なる合理化信仰のもと 既に弱者を侵食して犠牲を強いる
弱者にこそ それに耐えなければならない力なき老人の道が必要な現実

このような現実に目を瞑り 自立保身を説く力ある老人道であるならば ハッピーアンドラッキーを自賛するだけのように思える
自己のためだけでない 殉ずるところを持つ武士道の新老人であって欲しいとの思いであるが 須原氏には自賛するだけでない殉ずるものを持っていたと思いたい
玉手箱

 

2008/4/15 「商人道と武士道に痺れる」

マイクが50歳現役サラリーマンの時 自分たちの馬鹿さ加減に目覚めた
その年のNHK大河ドラマは 翔ぶが如く で 西郷たちの維新の話であった
維新の士は志を持つと皆ヒゲをはやしだし マイクもその頃はまだ社内に髭が流行っていないのにやって物議を醸し出し大変であった

戦後の日本で失ったもの 商人道を捨てたのはエコノミックアニマルとなったサラリーマン経営者や我々ではないか
個人主義自由主義をひったて 恥を捨てやり放題であった
実に楽しい人生であったが 自力と勘違いし 只のラッキーである自分に浅ましさを体感することが一杯あった

懺悔し 出来れば罪滅ぼしすべきと考え始めたが 現実の社会と生活がそれを制限して それ以上の勇気はなかった
しかし老後の人生は このような制約から解放されるだろうと 老人道を思考するようになった

松陰 梅岩
マイクの老人道のイメージは直感的に初めからできていた
しかし思考と実践の間に何かがあって それを取り除くのには今も愚民のマイクにはかなわない
観念思考とその行動に 両方を繋ぐ責任と言うものがある
そのことを陽明学は大事にし 維新の吉田松陰 商人の石田梅岩は塾で仲間を固め 観念を確実に共有し 実践を現実のものとして 日本を創り上げた

マイクの周りには当然理解ある仲間はいなかった
リタイアを待つしかなかった

リタイアの後 氏と同じ大学の非常勤講師とは縁あって毎月一度社会問題を話すカフェの機会を持つ
カフェはその仲間作りのステップであると思い 毎回欠かしたことはない
そして最近知ったこの本の哲学者が 実践力を示してくれてわだかまりを振り払ってくれるかも知れないと思った

その意味で今もこうして氏の実践哲学を真摯に読み解いて マイクの陽明学の糧にしようとしています

 

2008/4/15 「サラリーマン道を斬る」

マイクが 五十にして断つ としたサラリーマン道は 日本だけのアジア的存在です
欧米のビジネスマンと仕事をして ツクヅク実感したことです

戦後 農村長男は地主や農協軍団で憚り 次男は集団就職でサラリーマン化し まるでお武家官僚になったようにラッキーに出世する
70
年にもなると 地主と財界の時代となり商人道は全く廃れ 日本全体がバブルとともに醜さで膨らむ

バブルが崩壊しても雇われ経営者は保身のために何もせず去り 10年の空白どころか20年でも済まない無責任が今も続く

そのような我々が 寺島実郎の言う私生活主義者であり続ける生き方を残り少ないからと言って 力ある老人道として目指していいものか
誇れることでも無責任に済ませられることでもない


『われら戦後世代の「坂の上の雲」−ある団塊人の思考の軌跡−』 寺島実郎 著(PHP新書)にはこうある
やさしいミーイズム」と称する戦後世代
戦前世代の確固たる見解があることと対比し 個人主義に特化している
他者への思いやりが前提とされず 自らの虚弱性ゆえの他者への期待に過ぎないのであれば 形成される人間関係は実りの多いものとはならず 虚構の連帯に過ぎないとする
個人主義と呼ぶ一方で 私生活主義者と言い 「時代の問題」への対応能力の欠如を問う

誰かがサラリーマン道を斬り 自らはサラリーマン道を断ち 商人道や確固たる見解を持つ日本への 世直しを
それをする しなければならないのが戦後の老人ではないか
日本をダメにした 懺悔しなければならない 罪滅ぼしの出来る力のある 世直しする老人

どれほどか知れないが 日本社会の犠牲になった それでも何も知らず頑張った 力がないかも知れない老人でも 多分気がついたら 死ぬ前に 死ぬ時でもいい世直しを出来るかも知れないと生きる そんな老人道をマイクはイメージしている

2008/4/15 「梅岩を知っていますか」

マイクに 老人道をイメージし 五十にして断つ と思わせたのは 維新の松陰と三島の死 であった

二人の陽明学に加えて 大事な梅岩を知ったのは 10年前梅岩石門心学の明倫舎の近くに居を構えてからだった

マイクが梅岩を知ったのは 参前舎が京都国際会館で開講270年記念シンポをやった2000.10.15 で カルフォルニヤ大バークレイ校のロバート N ベラーを招いています
世界の第一人者であり 日本より海外で研究が盛んで 評価が高いと知ってショックを受けた

堺屋太一対訳本
HPや書籍で知りうるものですが 分かりやすくその重要さを語る本を(岩波文庫本もある)紹介します
京都学園大の研究室へ行って調べさせてもらった時に 堺屋太一の 日本を創った12人 を見つける
聖徳太子 織田信長 徳川家康からマッカーサー 松下幸之助等の面々の中の一人に挙げられている
儒教 朱子学の中でも 陽明学の実践の倫理を 商人道の中に説き 実施した事の重要さを言う
世界に誇るべき独創的哲学であり 日本人の本能に食い込んでいて恐ろしいばかりと堺屋は取り上げる

サラリーマン道の三大仕掛け人 植木等と南春夫とツービート
気楽に行こう お客を利用して儲けよう 皆とバカすれば恥かしくない
日本特有のサラリーマン道をサラリーマンが共に作り上げた

近江商人は三方良し つまり売り手に良し 買い手に良し 世間に良し の商売を続ける
商売の為に息子を鍛え 息子がいなければ丁稚に繋ぐ
今のサラリーマン商人はそれを忘れ 部下を自分の為に利用し 会社も自分の為にあるとする
お客も自分の為に存在し利用すればよく 上司を出世させそれで出世する
会社や従業員や世間や株主の為どころか 自分の為の利己的私物化サラリーマンである

マイクの梅岩再来 http://mike12.web.fc2.com/baigan.htm

も 覘いてください

 

2008/4/16 「陽明学 武士道 葉隠にまで」

松陰 三島 梅岩に共通するのは 陽明学である
陽明学の魅力は 多分 須原氏の哲学に共通するのは明確です
武士道に憧れ 観念論の無意味を説き 自分の体感が全ての自分の行動を決めるとする理論からも分かる
三島もそうであった武士道 その葉隠れ
やくざにも似て 正義 義理 に縛られる一人称の実感 自己中

観念は三人称での共有可能な理念であるが 他人ごとにもなり 行動にはならない
氏も陽明学も 一人称の行動に繋がらないものを否定している
その陽明学を「真説・陽明学入門」(三五館 林田明大著)から見てみる
松ちゃんHP http://ww91.tiki.ne.jp/~matsu/youmeigaku.htm
真説・陽明学入門
心の陶冶する 鍛えることの大切さを主張した教え
万物一体の考え方を理解し 心の中の葛藤をなくし 不動心を確立する教え
人間性を高める手段
知識や情報を増やすことよりも 心の歪みをなくすことや我欲を減らす努力が 心の中に生じるさまざまな葛藤をなくし 本来 心に備わっている無限のパワーを回復して人間性を高める唯一の手段であることを 王陽明は悟ったのである

陽明学の基本思想
<心即理>とは陽明学の花であり 基本的な考え方をいう(心こそ万事万物の原理)
<知行合一>とはその花の匂いであり その働き 具体的な作用(知識と行動はもともと一つである)
<致良知>はその果実であり 体と用をあわせ持った陽明学の神髄(良知<真の己>を発揮せよ)

加えて <殺身成仁>「誠」や「仁」(友愛道義正義)が生死の問題よりも優先する
<仁・義・礼・智> 惻隠の心(仁)他人の不幸をあわれみいたむ同情心

更に 四句教
善無く悪無きは心の体 善悪を超越
善有り悪有るは意の動 善と悪が生じるのは人間の意志が動くから
善を知り悪を知るはこれ良知 善悪を識別
善を為し悪を去るはこれ格物 人欲を去ること

観念としての朱子学の儒教社会に 商人道としての行動倫理を陽明学から掴んだのが梅岩であって 塾を広め社会実践に繋げ 戦後まで封建的でもあったが残った


武士道は 新渡戸稲造『武士道』などで説かれる日本人の「美しい」とされる生き方
実質的なものというよりも理想主義的な精神的倫理として成立した
武を本分とし勇敢さに最大の価値を置く 忠義をつくし自己を顧みない ことであった

武士道に加え 朱子学的儒教倫理が相俟って 観念的な過剰な忠義の倫理が混在し「葉隠」に発展した

「葉隠」は 江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士 山本常朝の武士としての心得を 田代陣基が筆録 全11
武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが 葉隠の全体を理解せず この部分だけ取り出して武士道精神と解釈されている
太平洋戦争中の特攻 玉砕や自決の一根拠だった事実と 現在の左翼系の文化人の解釈

三島も大衆文学の『死ぬことと見つけたり』(新潮文庫)隆慶一郎も 須原氏も 知的であろうと染まる人は絶えない
氏は その葉隠を 現代版 私生活主義者版にし 一般人向けに事業として示して見せた
団塊世代には 死に続けとまで期待されている

武士道葉隠でなくては意味がないと言うつもりはない
しかし その本分が 氏の言う高が 高は何なんだ と思うと 私生活主義者を感ずるだけで だからと言って意味がない訳ではないが 勿体ないとしか思えない

所詮愚民のマイクも染まってみたい気持ちがないではないが 何を義とするか そこらを実感することも 観念的にも 出来上がっていないのです

 

2008/4/16 「マイクの必殺老人道」

とうとうここまで来ると マイクの老人道 つまり必殺老人道がどの様なものか
未完成無責任と 度々ビビりながらも宣言しているので あとで詳細を白状するにしても 概略の話を済ませておくべきに思う
中村主之介
必殺と言う言葉から 直ぐにメージされのには 藤田まことの 必殺仕掛人シリーズですが その通り マイクの発想もそこにある
氏と同じ我々戦中世代は 戦前のマインドを幼心に持ち 安保で正義を通す精神と 戦後の個人主義の両方を併せ持っていて 娯楽映画も勧善懲悪の侍映画で育ちながら テレビ時代に入るとエンタメ番組にどっぷりつかって仕事のストレスをぶっ飛ばす

それでも何か矛盾を時々感じて その矛盾を仕掛け人シリーズや漫画カムイ伝を見て晴らす
仕掛け人シリーズ 中村主之介 藤田まこと
鬼平犯科帳 中村吉衛門 長谷川平蔵
子連狼 北大路欣也 尾上一刀とその一子
遠山金さん 松方弘樹 池上実季子
暴れん坊将軍 松平健
銭形平次とお静 村上弘明 東ちづる
水戸黄門 里見浩太郎 由美かおる
女無宿人半身のお紺 たかせ梨乃 笹沢佐保
破れ傘刀舟悪人狩 万屋錦之助
(
松平)長七郎江戸日記 里見浩太郎

今も昼番組で毎日残っているのは 我々に武士道や儒教精神がマイナーかも知れないが残っている証拠です
先ほど見た 必殺商売人 の 阿久悠の主題歌 夢ん中 唄小林旭

酒は苦いし 煙草は辛い
紅は溶けるし 寝床は寒い
そんなおまえの 肩抱き寄せて
惚れたようだと 俺は言う
男もつらいし 女もつらい
男と女は なおつらい
だけど泣くなよ 泣くじゃない
逢うも別れも 夢ん中

痺れる

三島や学生運動は 武士道の残骸として消えてゆくが 戦中派には観念としてだけでなく体感としてしっかり残る
学生運動を知らない世代には 全く途絶えてしまう
その時代の恵まれた学生は世代の10%で 学生運動を経験した学生は数パーセントでしかないので 今どれだけの儒教的つまり私生活主義者でない人間がいるか 自信がないが存在を期待している

戦後の日本をつくってきたのは確実に人口構成上メジャーなサラリーマンであった
植木や三橋やたけしだけが扇動したのではなく ダメにしたのはサラリーマン自らであった
ダメにした張本人が懺悔し 罪滅ぼしのために何かをし 世直しをしなければならない

せめて 出来る人が出来ることを
マイクは時々友人知人に語るが たまに観念として理解していただける方に会うが 要らぬお節介と馬鹿にする人が殆んどである

その時 世直しの例えに使う 必殺仕掛人は 誤解を生み易いし間違っているであろうとは思っているのですが どうしても実感しやすいのではと思ってである

必殺とは
自死ではなく 自殺でもなく 他殺かも知れない
他人事のように自殺のことをこれまで考えたこともなかったように 他殺について考えてみたことがない
サイトで考えてみることが出来るであろうか

つまりこれまで体感的にサラリーマン道を毛嫌いしていただけで 新老人道を恰も必殺老人道として美化しておきたいばかりに あまり考えていなかっただけだ

ズバッと誤解を恐れず話してしまうと 死ぬ前にならやれることがある筈だ
いくら老人とは言え なってみて分かったことに サラリーマン時代と変わらず 家庭的社会的制約があって 生きているうちは中々正義だと思っても通せないことが多い
つまり生きているうちは 勇なきなり でしかないのが普通だ

それでも例えばとして 話してしまいます
氏のように自死するくらいなら 地雷除去活動を老人が自主的にやってからと
これは 自死の美化であって 社会的に問題視されるに決まっているが

死刑囚に無帰還宇宙旅行を 生体臓器移植(中国ではあり)を 老人に死を賭けてやれることが・・
これも 美化や社会的強制化の危険があるが 氏はご自分で友人と相談してやられた

ズバリ必殺仕掛人 老人グループによる被害者人権擁護 仇討請負
このことの倫理哲学を現代版として勉強しなければ・・・

馬鹿なことを考えているようでも真剣なのです
残り少ない人生で 考え通し 結論を体感予測し 実行できるであろうか
浅学の愚民の たわごとで終わるかもしれないが それでは確実に 地獄へ行く

老人といえども まだまだ家庭的社会的制限あって 勇なきなり
氏に言わせれば 地獄は考える必要がないと あっさり馬鹿にされるのですが・・・

2008/4/16 「危険な思いに未練を残すマイクです」

須原氏は生前の極みに満足し 悲惨な老人死より 自ら安楽死をセットすることの方がお勧めとし それに至る未練や恐怖をどうして超えるか それを心理学的に 倫理学的に哲学し しかも実践し 現代版葉隠として 後続を私生活主義者に期待して書を残した

マイクが一番引っ掛かるのは 未練がないのかであったが 氏には全く未練がなさそうで だから振り払う必要もないと言わんばかりであった
神も地獄も考えなければ無いのだから 気にすること無かれと断言するだけだ
もう一つは戦後世代を本当に先取りしたのであろうか

読後感で 能天気と書いたり 私生活主義者でしかないのではないかと思ったりしたのはその為でした
新葉隠の士を任ずる使命感を背負う氏であるのに その義は何であったのか
団塊世代に義はあるか

マイクの義は ・・大見栄見栄を張ってここに書きたいくらいだがそれは恥ずかしいので止めておきます
浅学遂行不足の直感的実感的イメージでしかありませんので 恥ずかしいのですが 未完成だから未練にもなっているのです

何度も書きました懺悔をどれだけしたか どんな罪滅ぼしが出来るか それで世直しが出来るのか
必殺など無責任なことを口にしていいことなのか
家族的社会的生活をしている者の言う言葉かどうか
藤田まこと
マイクはこれ以上語る資格も自信もありません
この読後感では マイクの必殺老人道のイメージだけと言うことにして置きたいと思いますが マイクスタンディングのHPの 古人のパワーのページに 世直しのことを書いています
その一部の転記だけはしておきます

古人のパワー http://mike12.web.fc2.com/kodaijin.htm


今 年寄りのすべき事 それをしなかったら 閻魔さんはどんな罰を・・
よく考えてから年寄りは死んだ方がいい・・・死ぬ前にすべき事がと
考えただけでは閻魔さんに許してもらえない・・・まだそこまでなら 勿論死なない方がいい

既に世の中には罪滅ぼしをしている立派な人が一杯いる
退役軍人がベトナムで 残留不発爆弾処理で償いを
見張り番 大阪ヤミ専従等暴く オンブスマン弁護士など必殺を職業として
実に頭の下がる方々が大勢いる

先ずはやれる事を少しでも多く その数で閻魔さんに許していただく
出来ればそのうち仲間を募って 年寄りの世直し軍団を作りたい
年寄りは死ぬ前なら何でも出来るはずだ

それをしなければ地獄にと分かっている者も多い筈だから
具体的に何をするか それは十分考えなければならない
モット罪を重ねる事の無いよう 閻魔さんと相談してからでないと・・・
決闘は法律で禁じられているが 仇討ちはどうなのか
コンプライアンスや告発が仇討ちに発展して行かなければ世界は救われないのではないか
コンプライアンス会社が出来ているように これからは仇討ちや世直し請負会社やNPOの時代に
色々危険な思いを致すマイクです

 

2008/4/17 「一般的な自殺のことも」

今朝の新聞に 藤田まこと(75)食道腫瘍で明治座6月舞台「剣客商」降板とある
検診で見つけたもののようだから心配要らないであろう
一度御園座で見たことがあるし 必殺ファンであるので復帰を心より願う

とうとう必殺や世直しまでになったのは 須原氏に導いて頂いたからだ
殆どこれで語り尽してしまったような気がしたので 何を締め括りにすべきかと考えた
当然 須原氏の 自死についてでなければならないが もう語り尽しているようにも思う

尊厳死や人権まで考えているのに よく考えると自殺について 氏の言う自死ではなく一般的自殺については何も語っていない
必殺のことでは 他殺の正義や 戦争殺人や戦争そのものについて考えさせられる筈のものです
本当は自殺と他殺を同時に目的とする自爆テロについてしっかり考えたいと昔から思っている

そのチャンスかも知れないが 今は先ず 一般的な自殺について考える機会を持ちたい
自殺は確かに3.3万の自殺者と言う社会的側面はあるが 割と単純なことではないかとあまり考えたことがない

98
年に前年比8000人増えて3万人になった自殺者
男性は2.4万人年齢が上がるにつれ多く 女性は9千人60歳以上が多い
遺書からみた動機は 男性「経済・生活問題」女性は「健康問題
2006
自殺対策基本法」が成立

労働環境を作ったのは誰か 人権意識の社会的欠如では
10
万人当たり24.1人は ロシア39.4に続く2位で アメリカの2倍 イギリスイタリアの3
フィンランドは国家対策(調査と遺族の心理的影響を緩和する支援策実施)で 90年に30.4が 2002年には21.1にまで下がった
自殺には うつ病が密接に関連する

いのちの電話 http://www.cmh.ne.jp/m-health/jisatsu.html
を見ても 問題は単純そうに見えて社会の目や経済に絡んだ実現の難しさがる
サイト自殺 集団自殺 孤独 宗教 いじめ 慢性身体疾患 躁うつ 統合失調症 依存症 そして高齢者
いずれも 力なき個人の問題であるが 社会の責任を無視できないのは 人権問題そのものであり 人は皆社会人であらねばならない責任があることである

人間に尊厳あり 人の世に熱あれ 人間に光りあれ
水平社宣言

 

2008/4/17 「自爆テロも国際的人権で」

自殺も結局人権に対する広い社会的倫理の浸透の深さによるものであると思うが 人類は歴史的に成り行きで進歩してきたとする須原氏の説を否定するつもりはない

たとえ帰納的にそうだと決めつけられても 成り行きだけでない方がより加速する手段であることを演繹的に証明できる筈である
陽明学はそれを体感するまで観念論を極め それを義に繋げて実践せよと言っていると思う

ここから先は怖いことが起こりそうだ
陽明学の危険なところです
恰も死と全くつながりのない商人道に於いても 大義をつけて日本中に広めた梅岩心学であるが 封建的儒教精神を戦後まで美化し続けてきた
多くの面で封建社会が今も残っているのは 梅岩の完全でない失策に原因がある

何事も完全でないから 偽善を捨てて時代の趨勢に任せればいいとする氏の言い分も否定できない
では何が決めてで何をすべきか それは自分で責任 死をとることであろうか
しかしそれで果たして閻魔さんに よくやったと褒めてもらえるでしょうか
これ以上はマイクには論ずる力がない

必殺仕掛人は このくらい無責任だが 成り行き任せも責任なしとは思えない
責任を取るという思想は葉隠になり 自爆テロに繋がるように思う
大義に縛られて死するということは もし間違っていても大義の所為にしてしまえる
卑怯なやり方なかも知れないが しかしそれしかない死が歴史的に続く

自爆テロを抑え込むことだけで絶滅する程の時代ではない
次に 自爆者のサイドから 人権を考えなければならないのではないか
目には目が答えだとは思えない
サイトを見る
テロと救済の原理主義 小川忠
石井政之 http://uniquefacelabo.txt-nifty.com/blog/2008/03/post_37f3.html
誇りの不平等 と言う言葉で語る 小川忠 テロと救済の原理主義 新潮選書 の書評
自殺の多くは餓死になるくらいならば自死する という社会から緩やかに強制された死であると 雨宮処凛 は主張している
希望格差社会」を提唱した社会学者の山田昌弘の主張とも重なる
希望は戦争!」という扇動的な発言をして注目されている赤木智弘とも重なる
オウムが消滅しても 「誇りの偏在」は解消されていない
アメリカの格差社会が臨界点に達したことを暗示しているのではないか
国内にいる無数の疎外された面々に 自爆せよ とささやき あとおしする何かがあれば 国内でも自爆テロは頻発すると考えた

*** 全く 必殺老人道など 安易に言葉にできなくなる

池田信夫 http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/40792dc0bd2aa5b537ae2a0ea32a8611
同じ本の書評
彼らが神による支配というキリスト教の教えを忘れ 人による支配に堕落したからだ
その解決策がアルカイダにあるわけではないが・・・

*** テロの歴史的背景がわかる

須崎勝彌 光文社
特攻隊のこともサイト書評で
神州の泉 http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2006/03/post_a56c.html
自爆テロと神風特別攻撃はまったく別物 と題して 殉教の文化を広める神風特攻隊を語る
自爆テロは殉教 特攻は殉国
イスラムのは唯一神アラーへの帰依
日本の場合は皇国への帰依という差異はある
両者とも帰依する対象を持つ宗教的情熱が自死をもたらしたものであるから ほとんど同じ死の意味を持つという論調が優勢である
立花隆によって 特攻隊と自爆テロリストが同一次元で語られていたことに抗議するための本
立花隆は「文藝春秋」誌に イスラム原理主義の過激派の自爆テロ攻撃の源流も 日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件にあったと書く
日本赤軍の革命闘争と イスラム過激派の自爆テロと 神風特別攻撃隊 これら三者の
虚妄の系譜が出来上がってしまい 当の日本人がこの錯誤のロジックに飲み込まれていると
しかし特攻作戦はあくまでも戦争行為 一般国民は一人も巻き添えにしていない極限的な状況で取った戦法
自爆テロは報復の憎悪を込めた殺意 すなわち過去の経緯に向かっているが 特攻は
報復の意図ではなく 国の存続 民族の存続を願うこと つまりは未来を見つめて行っている

*** マイクは成程と言うだけにしておこうと思います
ここにも国際スケールで 人権問題の未発達未確立としか言えない現実がある

*** 考えると 考えなければならないことが一杯ある
老人でも出来ること
マイクでも出来ること
私生活者主義者にやってもらいたいこと
力ある人に是が非でもお願いしたいこと

*** やっておられる人が一杯いて頭が下がる
マイクはゴミを拾うくらいだが 各種の支援活動や 資金援助やオンブスマンであったり 内地や国際的な支援まで
井戸を掘ったり 死を賭けたジャーナリストであったり 僻地の医者であったり・・
力なきものでも死を厭わぬなら義は小さくても見つけられるであろう
死を覚悟せぬまでも 小義なら生きているうちに数を重ねることができよう
閻魔様に褒められるなら 死に際の瀕死の苦しみにも極みを体感できそうに思う

マイクはよく言われます お節介だと・・・

 

2008/4/18 「須原氏の ご冥福を祈る」

とうとう と言うか もういいのではと思うので 最後に氏の自死について もう一度見直して終わりにしたい

直観的疑問は 初めから幾つかあった

氏には本当に やり残した未練が無かったのか
何事も一人称的に 超越錯覚することは 只の自己中ではないか
友人に どのように理解してもらったのか

哲学者としてのプライドを持ち 観念論哲学者を否定し 一人称の体感の行動に 全てを任そうとするだけでは 陽明学に反する
三人称の観念を築きあげ その上での決行をすべきではないか
三人称無視 つまり社会性無視ではないか

人は社会的制約で 三人称の行動をする
成り行き社会は尚更 その制約で安全と改革が進む

氏が自悦する 極みや 高も 単なる個人的 一人称の満足でしかない
プライドも 美しいかも知れないが 醜い時もある
それより何よりも 氏の誇りが 弱者無視にあるように思えてならないのが残念で 傲慢さを錯覚しそうである

氏を 私生活主義者といてみたり 能天気としか見えないと何度も書いたが 本当にはそのような氏ではなかったと信じたいからでした
羨ましき人格としか言いようがない

他殺が許されないのに どうして自死が許されるのか
自死が許されれば 他殺容認とまではいかなくとも 人間の尊厳を無視することになる
私達の命は 私だけのものか

友人に理解を得ることで 既に完全な自死ではなく 一人称の死ではなくなっている
友人の社会的責任を考えると 大きな迷惑をかけている
家族の理解はあるだろうとあったが 死に様は残酷で 遺族への負荷は大きく脳裏から消えない
ご友人も大変ビビっておられるのではないか

今日の夕刊に 大谷實 同志社総長 が 自殺について として概論解説をされている
自殺未遂者がでても 自殺が自己決定の問題として許される行為として処罰しないのではなく 国家や社会には極めて有害であるから本来犯罪であるが 人道的弱者であるとして適用しない
だから 教唆し 若しくは幇助して自殺させた場合は許されず 6カ月以上7年以上の懲役・禁固(刑法202条)であり 自殺者が出ると警察は執拗に関係者の事情聴取をするとあった

だからと言って私が何もご友人やご家族を責める積りも資格も全くない
只この死が 氏の一番の希望であるこの先の死の人工化の 社会的倫理の進展に繋がらんことを願う気持でいっぱいである
この遺書としての哲学が それを可能にするであろう

ここまで考えるチャンスをマイクに与えて頂いたことには 感謝するだけでは足りない
人権について考える機会を頂いた
もっと発展して 人権を超えて 共生のあり方について考えなければといつも思っているが ここで止めておきます
本当は品格より 武士道より 今 人権ともう一つセットで 共生について語り尽さなければならない
真の共生社会を目指すなら 経済や武力の脅しでなく 文化の闘いを対話しなければならない

今 折りしも辛くも体験しているヘルニヤ激痛は 安楽に死にたがらせるくらいで 老人の 遠くはない私の死を考えさせてくれた

2
24日に見たこの本の書評には 本書を褒め称えているが 今の風潮を考えれば 社会的には 丁重に黙殺されるかも知れない また ここまで自信に満ちた実行を 正しく批判できるかと あったことにも刺激されてここまで書いた  

未練ぽいマイクのお節介は ここで無責任のまま終わる

老人の務めは 生は素晴らしい可能性を持つこと 老いても力を失ったものも 素晴らしい生があることを示すことです
当たり前っぽいと書いてしまった 新老人の会や 新老人道は それはそれで素晴らしいことでしょう

必殺老人道が未完成のままであるうちは マイクは未練を捨てきれず 激痛腰痛で動けぬ体のままでも 自死するわけにはいかない
未練は少しでも残しておくことをお勧めしたい

 

2008/4/19 「書評に魅せられてここまで」

読後感は既に終えた

この本を一人でも多く 老後に備えて 書棚に備えておくように願うものとして マイクの要領を得ないこのブログの退屈な長文を読んで頂くより マイクが見てどうしてもと読みたくさせて頂いた新聞書評を トップ記事に転載することの方が良いように思う

大阪府立大 森岡正博教授 2008.2.24 京都新聞 より ブログトップに転記する

大変美しく書かれていて 感ずるところがあった
やっと手に入れた本書を一気に読んだ
しかし読後のマイクには 勿体なさを拭い切れず そこに人権や社会性についての社会思想を読み取ることはできなかった
書棚に備えておくだけでは済まない大事なこの事業のこれからに マイクの遠からないその時のために望みを託したい

 

 

以上が 腰痛で家から出られなかった私マイクが この本を読んでブログに感想を記した2008/3/30から4/19までの書き込みを時系列転載して 一先ず終わりにしたものです

 

その後 次の2年後の書き込みまで放置していました

2年目のその内容は 私マイクなりの死に方を発案したことをページとして立ち上げた事を紹介するものです

2010/4/10 「私の自死道」

この読後感想を書き込み終えて もう2年になる
今もこの本が書店でよく見られるは 多くの人に考えさせるところがあるからでしょう
マイクもその後考え尽くせぬ位のこの本の意味付けに 相当悩み続けました
その結果 そして最近になって マイク自身にも自死についての具体的な姿が見えてきました
それをマイクのHPに 「私の自死道」なるページを立ち上げました

平均寿命に近づき やがて身体や頭が衰え 生きていることに未練が無くなることもあるかも知れない
積極的にそうする積りがなくとも そうなる可能性は否定できない
そうなったときにどうすべきかを考えておくことは無駄ではないと思う
考え込んでいるうちに 死に場所と死に方を考えてしまい 我ながら悦に入ってしまったのです

私の自死道 http://mike12.web.fc2.com/jishidou1.htm

ここには それらを詳細に記しています
是非とも ご意見ご叱正をお願いします

酒道として 私の飲み方を考えているうちに考えついたものです
私の酒道 http://mike12.web.fc2.com/syudou1.htm

にも お役に立つ哲学を纏めていますので 是非ご訪問ください
2009.3.京都芸術センターで酒道を語る

 

2010.7.13 「私の自死道を 哲学カフェで」

この410日に「私の自死道」なるページをHPに登録したと書き込んだ
ところがその後 ヒョンナことから 第56回哲学カフェで 9日に フリーダンサー マイクスタンディングとして 京都ギリシャ・ローマ美術館で そのことを講演することとなった
須原哲学をベースに勉強したこと そろそろ自分の死をシミュレーションすべきと言うマイクの気持ちを伝えました
誰もが親密感を感ずる哲学的な話題だったので 皆さんの色々の受け止め方が分かって 益々の思索の励みになりました
原田造形大教授がマネージするこのカフェに参加できて光栄を感じました

有難うございました

 

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その後のブログ書き込み(2012.4.16追記)

2年目の書き込み2010/4/10からその後 死に関する本に接することが多くなり ボチボチと簡単な読後感を書き込んでいます

2010/4/22 以降 5/5 9/27 2011/1/3 5.23 623 6/26 6.27 11/8 11/14 11/17 12/12 2012/2/11 2/27 3/2 3/10 3/16 4/13 4/14 程度ですので ブログの方にお目通しお願いします

       

       

   

過っては 老後の健康な生き方から身辺整理程度の死の準備ぐらいでしたが 最近は次第に死に方そのものに関する本が多くなっている

 

次の書き込みは マイクの予測をバックアップするようで怖い話なので ここに転記しておきます

2012/4/14 「自死先進国日本が見えませんか」

自殺や孤独死が社会的な問題となっているのに 自死の勧めとも言える孤独死を勧めたりするのは 次のような社会的背景があるからです
厚労省のデータでは 医療費抑制政策の為 今後医療機関で看取られる人は増やさないとする

詰まり財政的に 自宅や介護施設での最後を迎えるようにしすることでしかあり得ないのですが 実際の都市生活者にとって 在宅看護・医療は殆ど現実的ではない

従って 厚労省は責任が取れないとしてその他の死に方を勧めている

具体的にそれが何か 誰も分かっていないが 何となく予感される人が先ほど書きこんだように自死としての孤独死を勧めるしかないと公言しているのです

確実にこのようになることが分かっているのに 終活をせずにいられるでしょうか

人生の締めくくりは その他の方法で 自分でするしかないのです

孤独死や 或いは安全安心な自然死と言える自死の方法を早急に考えなければなりません
今も難しい安楽死・尊厳死どころか 須原さんの言う人工死を容易にできる社会が否応なしにやってくるのです

と言うよりそうならなければ ならないようにするより社会問題になるのです
コンビニで買えるような薬を準備し せめて最後には見たい夢でも見るためのドラッグなども容易に誰でも買えるようになるしかないように思います

その頃は誰もそれを見て見ぬ振りするしかないような そんな殺伐とした日本が世界の先進国呼ばわりされているでしょう

フォームの始まり

フォームの終わり

 

大変怖い話です

 

読んではいないのですが 次のような本があります

リンク先で内容確認してください

『治りませんように』べてるの家のいま 斉藤道雄 みすず書房

中澤まゆみ「おひとりさまの終活」(三省堂)

私らしい人生のしまい方大前伶子 講談社

島田裕巳『人は死ぬから幸福になれる』青志社

生きる勇気 死ぬ元気. 五木寛之 帯津良一. 平凡社

「死ぬときに後悔すること25」大津秀一致知出版

隆慶一郎「死ぬことと見つけたり」隆慶一郎 新潮文庫

立岩真也『良い死』(筑摩書房)

死ぬのが怖いあなたに』山川 紘矢(イーストプレス)

わたしが死について語るなら 山折 哲雄 ポプラ社

 

 

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