古人のパワー    最初のトップページに戻る

 

古代人と言うか古の人は 現代の人間に較べれば エネルギーパワーも情報パワーも 何百分の一かの少なさと思われる

それなのにその古人(いにしえびと)たちが 古に成し遂げた幾多の活動や業績を知るにつけ 頭下がるものを覚える

このことをもっと 体験的に感ずることが 現代の生き方を より確かなものにすることになるのではないか

 

役行者や空海が 日本中や海外まで あの時代に駆け巡った事実を感覚できますか

 

情報が少ない分 知力や直感力や観察力や洞察力や興味関心力が 我々より優れていたとしか思えないのです

交通インフラの無い分 体力や持久力だけでなく 当たり前のように気力や精神力や五感に優れていたのです

それだけではないもっと何かが ある ある筈

 

現代人は豊になったと感じてはいるが 本当は失ったものが それと同等以上にあるのではないでしょうか

人間の総合的パワーは 今も昔も変わらない 唯使い方のパターンが違うだけである

 

人間の幸せの大きさは 誰も 何時も パターンは違うが 同じサイズなのではないか

どう生きるかを決めるのは 自分であり 時代や環境だけに任せるものではない

生きるパターンを体験しなければ 自分で決めることも 色々あることすら知りえない

 

体験し 理解し 考え抜いて生き方を決め そして更に鍛えたい

お遍路や 熊野詣や 修験の道を 生活の中で 体験する機会を増やしたいが 中々です

実践されている方や共感頂ける方からの ヘルプを プリーズ

私マイクは役行者を少し勉強しており 修験の道を これから体験したいと思っています

 

 

マイクの勉強や思いをお読みいただきたく 古人憧憬 2005.8.8 に纏めています

 

その強い思いを 世直しと懺悔 2007.1.2 に話しますので覗いてください

 

また 石田梅岩を再考再来願望するマイクの思いを 梅岩再考 2007.3.15 に

 

そして大事な 役行者のこと 2008.2.18 についても 簡単ですが纏めました

 

仏教ファンのマイクは 閻魔・地獄の時代を待ち望む 2010.8.3 でその気持ちを

 

そしてマイクの原点としてのエピクロス崇拝 2010.12.30 を思い返しました

 

梅岩に並んで 大拙以上の京都人がいたことを 平井金三再評価 2012.1.26 に

 

 

 

 

マイクが自分らしくと 自分の生き方弁え道シリーズとして真剣に探求した道を纏めます

古人を憧憬し 般若に近づくため実践論として私の酒道 2010.2.4 を創り上げました

 

 

また仙人白幽子に憧れ 自作の臨終スタイル私の自死道 2010.2.6 を考える歳になりました

 

 

またこの「自死道」を発展させるため自死本読後感ブログ』を立ち上げて 引き続き考えています

 

このteacupブログを見易いように 時系列に転記して焼き直しました

 

    須原一秀著「自死という生き方」の読後感 2010.6.2 でマイクは色々考えました

 

このブログは須原本の「読後感」のカテゴリーの後 「終活本」を紹介するカテゴリー等として 今も続いています

それらも以下に続いて焼き直します

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました「終活本」の紹介 2012.7.19

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました「楽しい死」はあるか 2014.2.6

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました「老人の責務」を見つめる 2014.2.9

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました心満たされて死にましょう」と焦る 2014.3.18

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました「心満たされて死にましょうその2」です 2016.1.31

読後感以降のブログをカテゴリー別に時系列転記しました「終わりよければ全てよし」です 2017.1.24

 

「私の自死道」ではなく 「老人に自死を」勧めるべきと ブログの簡単な纏めを自死 2017、2.19

 

 

街中の仙人たろうとするマイクの思い上がり私の仙人道 2010.7.12 をお笑いください

 

長生きのためには未練たらしく! マイクの私の未練道 2011.4.26 をグラスノスチします

 

酒道を説きながら 食を無視できない 食の弁えを哲学して 私の食道 2011.6.3 を語ります

 

酒と食ときたら セックスも哲学すべきと 私の性道 2011.6.11 を告白することに

 

 

 

また 世直し老人としての弁えを 自照も含めて 老人道シリーズとして纏めてみます

私の秘密道(秘密こそ人生を充実させるとの思いで生きるマイクの告白)2011.1.1

私の失敗道(失敗こそ人生 失敗を告白 自信そして進化と豊かさ)2011.1.3

私のリスク道(可能性とリスクのある人生を それを弁えて楽しく)2011.4.23

諦めの老人道(マイクの諦観道として 諦めることの大切さを)2011.4.25

闘う老人道(懺悔世直しを使命とするマイクのささやかな闘い)2011.4.25

私のバランス道(その場その場の場当たりマイクを弁護する)2011.4.26

私の解脱道と辞世の句(お迎えに自ら出向く それには辞世の句も)2011.7.7

 

 

 

また マイクへのご意見・ご賛同をこの掲示板にて是非ともお聞かせください

 

 

 

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古いBBSを テーマ別に纏めています

取り敢えず作った2002年からの1年分しかありません

BBSをもとに逐次 上記の様な解説ページに纏めたいのです

そのためにも BBSを読んで頂き BBSにどんどんヘルプをプリーズ!!

 

目次です

ジャンプしません スクロールでテーマへ 

修験一般

修験の道に憧れる その思いと 知識・情報を

役行者

祖を知り 祖を仰ぐ

空海他

智のみならず 全てに優れている 古人のパワーの極みを知りたい

サンカ

不思議な古人に 今まだ合えるのでは 可能性は

 

 

雑感色々

古い雑感色々のBBSにあったものを残して置きたく ここに・・

 2002.5.3から 2003.7.7まで

修験一般

ナンバーズさん

2002.5.19

モンシロチョウの動きはフラフラといい加減なものとばかり思っていたら、いつか風の強いときに枝を器用にすり抜けていくのを見た。
まだら蝶だったかが1000Kmも渡り鳥のように移動すると言う。蝶の脳味噌が人間の何分の一か、スパコンと電卓のようなものだと考えてしまうが、それは間違いだ。
人間の脳はほんの少ししか使っていない。益してや本能は消えかけているのではないか。
蝶くらいの脳でもあれだから、本能だけで日本中を駆け巡り、機敏に走り回るすばしっこさを、人間は持っているはずだ。
行者が鍛えようとしてきた事はそれであり、出来ない筈はない。
サラリー行者さんは何処まで修行されているのでしょう。サラリーと言う名がついている限り無理なように思いますが。
世渡りや私生活などに、本能を大事になされておられる事でしょうが気になります。

 

マイク

2002,8.17

さてこの夏は 120円の京都駅から西大路までの切符で 550Kmを11時間掛けて駆け巡った
先ず東回り 湖西線で 近江塩津・湖東を草津へ・そして柘植・木津・桜井線で高田・そこから和歌山へ・さらに天王寺へ・内回りで京橋・東西線で尼崎・一路西大路へ
ご存知かもしれませんが 近畿特定圏内では 途中下車無く 同じ駅を通らなければ 何処へ行こうと最短区間の料金でよい
ミミッチィ夏休みであった
電車でなく 足で 昔の人はこのくそ暑い夏でも これくらいの事はやってのけた
そうでなければ 伊賀や甲賀の山奥から 紀ノ川の奥深くまでにも 昔から道は無かったであろう
昔に既に立派な道があったからこそ 近代になって列車が一挙に出来た
道無き道に列車が出来てから開けた訳ではない
道や田畑造りを人海でコツコツやってのけた 少ない人口 少しの道具で
体感は出来なかったが 思いはますます燃えてくる 実感したい

 

サラリー行者さん

2002.8.25

今日は地蔵盆で、鷹峰の方で町内会の連中と食事した。バスで行く。
ここは本阿弥光悦が芸術村を作ったところだ。ここの芸術家達はこの時代遊びには 島原まで8キロばかりを歩いて行き 芸者・廓で騒いで帰った。
歩いてである。飲んで騒いで 当り前なのだ 歩くのが。

 

マイク

2002.9.9

古人のパワーに接したいと思う気持ちを起こさせたものは 役の行者・空海などの脅威的パワーへの憧れからだけでなく 縄文人やサンカの生活も我々とは違う何かを持っていたに違いない それを体験したい そして失った何かを体感できるのではないかと言う思いです
子供達相手に 縄文人体験イベントなど時々あります
サラリーマン達に何かやらせるいいアイデアはありませんかね
サラリー行者に変身できるような

 

Sachiyoさん

2002.11.11

空海も、役行者も、人間を鍛えておられた。今、ある役行者の神通力の本を手にしつつ、書いてますが、
彼は、六通神という、修行を、伝えておられるとか?
天眼通・天耳通・他心通・宿命通・神足通・漏尽通
その最後のが、六神通の奥義だとか。
鍛える、学ぶ方法、何かが、今の教育やなにかとは、全く、観点が、
違い、もっと、感覚を磨いておられて、これを、修行されてたのですよね。
マイクさん、こういったことに、どう思われます?

 

マイク

2002.11.12

sachiyoさん曰くの右脳・左脳の他に 間脳や小脳 海馬など 脳には夫々に役割があって 左右のバランスだけでなく 深さのバランス または どこに重点をおいて生きるかもあります
人類の精神の発達は 環境と自ら判断で バランスと重点を巧みにこなしつつ発展させてきたのです
修験道はこれらを使い分けるよう 人間が意識して体験できることを教えてくれます
今必要なことを学ぶだけの教育ではなく 人の可能性の全てを体験し そのパターンを自ら選ぶことが 個性を生かし創ることでしょう
年老いて修験するのではなく 若くして修験すべきと思います
修験の道急ぎ駈け抜けましょう

 

Sachiyoさん

2002.11.13

人間の心の働きには、どうやら、大脳辺縁系が、大きく関わるとかいわれてるとか。近頃、第三の目とつながるとか、松果体が、何かありそうだとか?聞いた事が。
何事も、頭で考えることも(頭を鍛えることも)、意味あるけれど、同時に、絶対、直感とか感覚とか、
こちらも、とっても、人間が、生き生きと生きるには、磨く必要が、
ただ、芸術的感性のためだけでなく、楽しいという感覚、悲しいとか、感動するとか、
人間が、人間らしく生きるには、必要だと、思いますわ。
これには、いろいろ方法が、あるけれど、古人は、いろんな意味で、感性豊かに、生きてらっしゃのかもねえ、想像力も、無限だし。昔の作品をみると、そう思うことがある。
ただ、今、現代は、また、意味のある、いろんな意味で、試されてる、進化するように、促されてるような、気がします。

 

マイク

2002.11.14

景気の低迷で これまで一緒に仕事してきたサラリーマン連中も 最近は本当に生気が無い
年をくってきた所為ばかりではなく 余裕を失い 自らの思考が何処かに偏在化してしまった為だと思う
少しでも刺激をしてあげようと ちょっかいを掛けると 要らぬお世話だと言わぬばかりである
まだまだ楽しめる生活や人生のあることを 芸術もそうであるが 宗教や哲学や そこまででなくても 善からぬ遊びであっても 色んな可能性を教えてくれる
余裕の無い日本人に何時の間にかなってしまった
神通力があれば 生気を送り込んであげたい
ところで 神通力育成の 手近な方法を探してみて教えてくださいませんか

 

マイク

2002.11,16

修験は体験が目的ではない
修験の体験を通して到り付く幾多の可能性を体験し 自分のパワーを知ることができる
しかしそれが目的ではない
ここからが難しい 新しい可能性に 辿り着くのが目的
可能性とは 何でも良いのではなく 正義や 真実や 神御仏に近付くためである
今 正義が欲するものを 虚偽を正すべきを 求めるものためになすことが何かを自覚し 自らの意思と神通力を求めて 修験の道に・・・・・

 

マイク

2002.11.24

公開シンポで ハンブルグ大の 独逸人仏教学者が 肉食(にくじき)の仏教的教義と歴史と現代人のあり方を問うものであった
原始仏教は 殺生に緩かったが 小乗仏教と共に厳格となり 大乗と真宗ではさらに 妻帯と飲酒と共に緩くなる
殺生しないで生きられるか 悩んできた仏教であるが 時代とともに理性と言う宗教思考で 自ら癒す為の理屈を作り上げていく
宗派と言う思想は 時代時代の在家の合意を導いてきた総意であり 皆と同じであることで癒しを錯覚させる
皆が食べれば食べ 戦えば宗徒も戦いまでする
錯覚することで癒される 催眠術でも癒される
しかし本物の癒しとは 宗教でも 偽善解釈の思想でもなく 脳髄近くの体が欲する動物的ものなのですが ここまで複雑な生活となってしまった人間に 果たして 癒されたままでの生活が可能であろうか
動物と人間の狭間を如何生きるか
時々動物に 戻って考えてみようと言うのが 色々の修行なのでしょう
その結果 錯覚で満足してしまうのが 実態なのでしょう
時々動物になりましょう 気功でやるように 鰐になったり 鳥になってみたり

 

サラリー行者

2002.11.30

道(タオ)、即ち老子いわく、人の作為が虚飾と贅肉の生活に導いた。
これを振り払い、獣に戻りて自然と一体化し、為すことなく、化するべし
、と。
これは全く時々、鳥や猿になって、鰐にもなった気の、必要を説くものでしょう。
上善 水の如し。至上の善は 水の流れる如く無為自然なり。
自然体を忘れるなという事でしょう。時々で良いから。

 

マイク

2002.12.1

ところでお酒は 大脳表皮を麻痺させ 脳髄中心の 動物に近付けます
鰐にも鳥にも なれるのです 嫌な猿になってしまうかもしれませんが
さて 禅宗の寺では お酒を般若湯(とう)とも言います
般若とはそのような境地に達する事を言い そのための道具でもあるということで 酔っ払いが許されています?
ビールは般若麦(ばく) ウィスキーは般若洋
どちらにしても 座禅や修験の修行によらなければならない事を お酒やドラッグでも味わえるというのは 寂しい限りではあるが 私などは 殆どこの事がきっかけで 感心を持ったようなものです
いまも殆ど酩酊でキーを叩いていますが 般若に達していませんかな

 

マイク

2002.12,5

私は今 街中に住み着いて 仙人たろうとしている者です
山中の霞を食らって生きるのではありませんが 街中で文化の霞を食べて生きられると信じています
霞だけで生きられることは 街の仙人でもできることでしょう
文化は 般若を呼び戻すツールでもあり 生活・生命の一部でもあるでしょう
そう信じ 憧れているだけですが

 

マイク

2002.12.15

このHPの雑感の掲示板の来客のポコテンさんとは コンテンポラリーアートについて語っています
よく考えてみますと sachiyoさんのやってるコンテンポラリーダンスは 正しくヨガや気功のように トカゲや鳥になったように 般若の境地に達して それを体で表現しているのではないかと思ってしまうような踊りがよくあります
禅や お酒を飲んで 般若に達するのは 精神的な体験とその境地そのものです
ヨガや気功は その姿勢や動きを通して 般若を体験できる 手法の一つでしょう
コンテンポラリーダンスで それずばりに見えるような踊りをしている人は 恰も般若に達しているかのように動いているが そのような精神状態を表現しようとしているのか 或いは 気だるい現代の世相や 若者の心理状態の共感を求めようとしているだけなのか
よくわかりませんが どちらにしても 深層では同じでしょう
何やかやと般若に達する事の多い年の瀬です
般若に達するだけでは何のパワーも生まれません
古人のパワーを呼び戻し 仙人に近付かねば
 ただの酔払いや ただの健康法や ダンスのように思うのですが
すみません 酔払いと一緒にしてはいけませんね

 

マイク

2002.12.21

休みの日は朝から般若になっています
殆ど依存症といえるでしょう
般若になって悟りに近付きたいという気持ちを言い訳にして
でもこのアルコールによる悟りは あくまでも本能を呼び戻す般若状態からの悟りです
殆ど生まれつき個人に残る先祖の それどころか獣であった頃の本能を 個人の修行で得るものです
それに較べ 宗教による悟りは 禅宗のような学問宗教によって達するもので 対話による悟りでもあります
本能を呼び覚ます事はあっても 大脳表皮で思考するために 脳は覚醒させなければならない
そのために酒ではなく 茶をすする
茶禅一味 と言う
茶と禅は同じと言う意味
それが禅の懐石料理から 茶懐石になり アルコールが少し入り 会席料理になって アルコールがハレに付物になって 日本料理の役付きになる
団体で悟りを求める日本の接待行事になっている

 

サラリー行者

2003.1.12

ここ数日は、聖護院の山伏が法螺貝を吹きながら、京都の檀家を訪問して行く。
在家の人たちと思われるが、それなりの修行を感じさせる姿格好である。
中々の風情である。
在家で、修行を積む。そんなことが出来るのであろうか。
私はそうであらねば成らないと思っている。
生活する一般人の悟りこそ、この世に求める姿である。僧侶だけのものではない。
サラリー行者の悩みはやはり、生活の中での悟りの両立が、特にサラリー時間の間では全く成り立たないことだ。

 

マイク

2003.6.29

仙人は松葉を食べて生きるという
松の実だったらそれだけでも生きられるとも思うが 松葉だけでと言うのは中々理解できない
一度トライアルしたいとは思うのですが調理方法など在るのかと調べてみたが分かりません
何方か是非教えていただきたい
ちなみに松の実は中国にある中国土産でも貰う事のある 3本葉の白松という松の実らしい

 

サラリー行者

2003.7.7

右脳左脳のことはご存知の通り夫々ハッキリした役割があるようですが、その脳で考え行動する総合的存在である人間個人まで、右左といったハッキリした思考と情緒を区分して行動する必要もない。
もとより古人は右脳左脳の機能分担を知るまでも有りませんが、間脳と小脳にて総合的にて取り纏め思考し行動していた。
京都人、日本人も文明開化まではそうであった。
宗教が科学に責められてから、西欧では右脳が優先されるようになり、それだけでなく思考を、また人間性までも区分するようになる。
本来好き嫌いや善悪までも、合う合わないや白黒で決めるべき事ではない。
総合的に判断すればするほど両者のバランスが欠かせない。
そのバランス総合能力を特に敗戦で100%捨ててしまった。
総合より個人を優先すれば自己保存されるという理論まで信仰されてしまった。
古人のパワーは総合力、即ち小脳間脳が生きていたと言う事。
つまり現代人に小脳間脳が果たしてあるのだろうかと言う事になる。
曖昧な京都人には少しは残っているが、それをいいことには自らも思っていない。弱みと位にしか。

 

マイク

2003.7.31

仙人を目指すマイクも 寄る年と 雑事のために 中々修行につけない
昔は顔を見るだけで 少し話をするだけで その人の生まれ月を当てることができた
しゃっくりする人の目を見つめるだけでそれを止められた
サラリーマンを40年もしているうちにそのパワーは今全くなくなった
最近古本市で催眠法の本を買った
呼び戻せるかとの期待もあるが多分 買っただけで 読む事はなかろう
買っただけで読んだ気になるようになってしまっている
これを歳の所為というのは間違っている
サラリーマン家業の間に失ったものなのです
サラリー行者さんは 意識的にそれを避けるべき事を知っているから救われているのです
左脳任せでなく 右脳や小脳あっての生命バランスを崩さなければ まだまだ仙人の道に近いと思います
修行にお励みください

 

 

 

 

 

 

役行者

サラリー行者

2002.5.5

鳥取県にある三徳山三仏寺の投入堂は断崖に社を投入れて作ったと言う、役行者ゆかりの寺である。役行者の修験の跡は日本全国にある。
京都に住む私は役行者山と言う祇園祭りの山車に親しみを持つ。新町通りの役行者町の山車だ。
柏屋光貞という京菓子司やさんの宵山の日だけの行者餅を戴く。
聖護院と醍醐寺が修験本山である。2000年には1300年遠忌で金峯山と共に賑った。

 

サラリー行者

2003・6.5

サラリー行者は古本市で「七人の役小角」なる夢枕獏の監修になる本を見つけた。
2000
3月の初版 まだ新しい。司馬遼太郎・黒岩重吾・坪内逍遥など著名な作家が取り上げた役小角小説である。
それほど多くの作家の関心を引き付けた人物である。 空海 聖徳太子に並ぶ人物として 取り上げられている。
そして最近黒岩重吾の遺作となった「役小角仙道剣」が新潮社から出た。これは圧巻で読み始めたがもう少し時間がかかる。
もう一人安倍清明とも並び語られる。
これも意味深である。
聖徳太子・空海は史暦が多いが、清明・小角は何故か空想的な語りになってしまっている。
それを黒岩重吾が物語として具現化している。
びっくりします。信者というか或いは小角自身ではないかと思わせるくらいなりきっています。
我々も小角の時代の小角になりきれるのではないかと思わせてくれる。
司馬と言い、重吾もそうであったことは今に生きるサラリー行者にとって希望を与えてくれた。
修行に励まねば・・・・・

 

マイク

2003.6.8

役行者は聖徳太子の生まれ変わりではないかともいわれ 太子の死後12年の生まれだと言う
なのに太子や空海等に較べ史料の少ないのは 在家の修行者であった為でもあります
在家の修行者を通したのは ただ自分の修行の為だけでなく太子が作った官製の律令国家の歪を 現実の庶民の世界から見て正すべきところを探り尽くしての大きな改革の為であったのではないかと思います
修行で終わってしまったようにも思われますが それだけでは1300年もの間崇め続けられる筈がありません
多くの人に理解できる共感できる魅力か何かがしっかりあるからなのですが 私にはまだはっきり言えません
ただの修行していない在家だからでしょう

 

 

 

空海他

マイク

2003.5.9

京都国立博物館の「空海と高野山」を見た
凄い
高野山にある国宝23のうち21が展示 正しく霊峰(おやま)がまるごと降りてきた である
重文187の内100が展示 今高野山はすっからかんである
空海の偉大さはこの美術品からひしひしと感じられると言いたいところであるが やはり空海について書物で知っていなければ その美すら感ずる事が少ないのではないか
殆どの人が仏像・仏画として拝んでいる様子が見えない事からしても これらの国宝を美術品としてみるのではなく 信仰や空海の偉大さを会得する為に見ている人は少ない
このことは凄くさびしかった
これだけのイベントに協力した高野山としても これを機会に信仰や 空海のPRを全面に出すべきであると思った
天才空海 どれほどの天才であったか 古人のパワーをもっともっと体験させるそんなイベントであって欲しかった

 

 

 

サンカ

サラリー行者

行者は行者、サラリーマンは仮の姿。
蝶々の何万倍かの頭があっても、その延髄のあたりは蝶々に負けずしっかり本能で生きる。
本能を見つめながら生きる、それが行者なり。
行者の私も気になるサンカのこと。
探し当てられるものならと、そんな思い募るばかりです。
サンカと行者。接点を再考すれば、共に生きる姿を教えてくれそう。

 

 

 

 

 

 

雑感色々のBBSからの要約転記

2002.5.2

サラリー行者さんからはいにしえ人には戻りたくもないが 司馬遼太郎等読んでその気になるだけでもと  また 口伝は文字より正確で 記憶力や思考力を豊かにしてきたことを述べられている
ランナーズさんは走りの理論のページで 走りからも古人のパワーが体感できる事を云っておられる
五木寛之「風の王国」は 役の行者やサンカのパワーがつい先程まで遺伝子の中に残っていた事を考えさせる
遺伝子に残っているはずの本能を蘇らせ 体感したい

 

私の思いもチョッとここに

テーマ

古代人の感度と対応力

革命の遺伝子は元よりなし

 

 

 

 

 

2002.4.25

日本は外圧でしか自らを変革できない事を歴史が語る

大化改新は 大陸で大帝国(隋・唐)が出現し 日本への脅威となった事で それまでの氏姓制度から 国家建設を企てた大事件であった

その公家が退廃の後 戦国時代に入って 明の脅威や朝鮮の役が外圧としての幕府の必然性を醸し出したことで 再度国家統一が成功した

明治は黒船の外圧 戦後は2発の原爆でやっと気付く

情報力や 距離を越えて 古の方が 深く深刻に認識する感度があって 改革がなされた

時代が進むほど情報量が増える事で 遺伝子は 感度が弱まるばかりで 変異し進化するスケールもスピードも鈍っている

次の外圧は何であるか 原爆以上の強烈なものを待つしかないと思う

改革遺伝子は元より少なし

 

 

 

 

 

2002.4.26

欧米人は哲学遺伝子を持つが 日本人には少ないと思う

顔を見てそう思ってしまう 間違いなかろう

米国人は歴史的にハッキリしているように 移民フロンティアとしての遺伝子がリッチな先祖ばかりのの子孫である 絶対的にリスク好きの ビジネスマンや文化に満ち溢れている

5人に一人が革命遺伝子を持ち その5人の一人が つまり4%が革命実行者である

このバランスが狂うと シーラカンスになるか 絶滅種になるかである

日本人はプア−な人種だが 外圧で救われる別の感度のいい遺伝子を持っていたようだ

如何いう名前と性質の遺伝子か暫く考えてみます

 

 

 

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