役行者のこと   2008.2.18

マイクは 修験道の開祖とされている 通称 役行者(えんのぎょうじゃ)に憧れ 古人のページを立ち上げた

マイクが高校生時代に憧れたのは 古代ギリシャ哲学者で 快楽主義者と言われた エピクロス であった

共に 今もただ憧れるだけのファンでしかありませんが マイクの人格に少なからぬ影響を戴いている

京都に住んで 白隠に教えを授けた白幽の修行の場所を知ったことで 白幽にも憧れる

同じ時代の行基についても勉強しなければならないし 空海についてもっともっと知らなければならない

しかし 手軽でと言うと不敬な気もするが 勉強し易いという本音があって マイクのテーマにしている

 

古人のパワーのページの 古いBBSへの修験修行の書き込みの中から 役行者のみを拾い また

その後のBBSの中の役行者と 行基 白幽の事を書き込んだもののみを 下記に抜き書きで写します

本当は修行一般について 時々に思うことを広く語っているので見ていただきたいのですが

纏めるのが儘なりませず・・・BBSからもご意見ください

 

2002.5から 2008.2までのBBSから 役行者のことを

役行者

サラリー行者

2002.5.5

鳥取県にある三徳山三仏寺の投入堂は断崖に社を投入れて作ったと言う、役行者ゆかりの寺である。役行者の修験の跡は日本全国にある。
京都に住む私は役行者山と言う祇園祭りの山車に親しみを持つ。新町通りの役行者町の山車だ。
柏屋光貞という京菓子司屋さんの宵山の日だけの行者餅を戴く。
聖護院と醍醐寺が修験本山である。2000年には1300年遠忌で金峯山と共に賑った。

 役小角今降臨す

サラリー行者

2003.6.5

サラリー行者は古本市で「七人の役小角」なる夢枕獏の監修になる本を見つけた。
2000
3月の初版 まだ新しい。司馬遼太郎・黒岩重吾・坪内逍遥など著名な作家が取り上げた役小角小説である。
それほど多くの作家の関心を引き付けた人物である。 空海 聖徳太子に並ぶ人物として 取り上げられている。
そして最近黒岩重吾の遺作となった「役小角仙道剣」が新潮社から出た。これは圧巻で読み始めたがもう少し時間がかかる。
もう一人安倍清明とも並び語られる。
これも意味深である。
聖徳太子・空海は史暦が多いが、清明・小角は何故か空想的な語りになってしまっている。
それを黒岩重吾が物語として具現化している。
びっくりします。信者というか或いは小角自身ではないかと思わせるくらいなりきっています。
我々も小角の時代の小角になりきれるのではないかと思わせてくれる
司馬と言い、重吾もそうであったことは今に生きるサラリー行者にとって希望を与えてくれた。
修行に励まねば・・・・・

 在家の魅力

マイク

2003.6.8

役行者は聖徳太子の生まれ変わりではないかともいわれ 太子の死後12年の生まれだと言う
なのに太子や空海等に較べ史料の少ないのは 在家の修行者であった為でもあります
在家の修行者を通したのは ただ自分の修行の為だけでなく太子が作った官製の律令国家の歪を 現実の庶民の世界から見て正すべきところを探り尽くしての大きな改革の為であったのではないかと思います
修行で終わってしまったようにも思われますが それだけでは1300年もの間崇め続けられる筈がありません
多くの人に理解できる共感できる魅力か何かがしっかりあるからなのですが 私にはまだはっきり言えません
ただの修行していない在家だからでしょう

白幽の修行に近付くには

マイク

2005.5.22

マイクは今日 京都文博で白隠禅師展を見てきた
圧巻であった
修行を経た者だけが可能な世界を見せてくれる書画がたっぷりであった
私は京都とは割りと縁の少ない方である白隠が 26歳の肺を患った時に白河で修行する白幽真人仙人に教えを乞うたと言うことに痛く関心があって その秘法たるは何かを知りたく思っていた
京都の東の白川にはその白幽が修行したあとが残っている
白隠以上に気になる仙人である
前々よりその辺りが私の行く着くべきところと信じているのですが 今日は白隠ばかりの事であったので これまで以上の思いにはならなかった
ただ白隠があれだけ凄い修行の人なのだから 白幽は それはそれはもっと凄い修行を越えた仙人であったには間違いないと益々信じてまいりました

白幽実践こそ白幽信心なり

サラリー行者

2004.5.26

白幽と役行者との違いが何か私には分からない。
分からないまでも、それはそれは凄い事なのです。
サラリーには絶対理解できぬものがあります。それは確かです。
理解できないくらい白幽も役行者そのものであったのだろうと思います。
白幽研究と言うより、白幽実践が直ぐにすべき事と私はわかっているのですが。

熊野は遠いが 愛宕山位は

2004.8.1

フェイク仙人

熊野道が世界遺産に決まってから、役行者が度々話題になる。
祇園祭の役行者山もポピュラーになり、知らない人はいない。
嬉しい事ではあるが、いい加減な勉強では恥ずかしくて人に語れなくなってきたのも事実である。
しかも何も修行もしないでいる。今丁度愛宕山千日詣での時である。
たくさんの人がお札を貰いに登っているというのに、暑い暑いとクーラー頼みの暮らしをしているようでは、正しくフェイク行者でもある。

奥の山に見るべきものがある

マイク

2005.2.8

久し振りに 五木寛之の 風の王国 を読んだ
サンカと役行者とを取り混ぜた 走りの行をも組み込み フリーメイソンとも重ね合わせた優れた時代性と 歴史性とを満たす実に面白い 感心させられる小説である
つい熟読してしまうので 3部 32節の文庫本を10日もかけてしまった
那智に 何かを見たいと思って 一日を掛けたが 思いは満たされないまでも 益々高まった(昨秋京都から熊野まで徒歩で行こうとして・・・のこと)
次に巡り合える古人は 多分那智や そこらの山におられるように確信した
春にはもう一度 そのあたりの奥の方の山に入ってみたいと思う

箕面の仙人に教えていただきたい

マイク

2005.2.17

マイクには 放って置けない 気になる社会問題の一つにホームレスがある
そのホーレスに 知人と言っていい人が二人いる
一人はアーティストであり 昨日も 市美での芸美大作品展で久し振りに会って 彼の最近を聞いた
もう一人は箕面に住むホーレスの武道家である
その方とは去年の11月 高槻市 神峯山寺であった役行者祭で 偶然知り合った
役行者を紙芝居として活動されておられるのを見て お話しをさせてもらった
もう一度ゆっくりお話しを伺いたい方々の一人で 春までにはと ずっと思っている次第です
世の中には 社会問題としてのホームレスばかりでなく 仙人としてのホームレスもおられる
どちらも共通するところと 夫々の事情や思想もあると思う
どちらからも 我々凡人が 学者や知識人などから読んだり聞いたりして考えさせられる事もあるように またアーティストやその作品から考えさせられる比喩的なこと以上に 彼等からの方がより現実的で 実際的な世情や 人間の様を窺い知ることが出来るように思う
しかし我々がなかなか接する事の少ない彼等に ボランティアしておられる方のいることを思うと やっぱりじっとしておられない
私としては 社会問題としてのホームレスにも人ならずの関心はあるのですが 取敢えず このHPのテーマにからんだ仙人としてのホームレスについて あの方にもう一度会いたいと思っています

スローでなくローライフが新鮮な感性を

フェイク仙人

2005.2.22

箕面の仙人は金楓山 旋楓と言われる方です。
最近の流行言葉として、スローライフと言う生き方がカッコウよく取り扱われています。
ゆとりを無くした今時の生活の無味乾燥性を反省し、ゆとりある時間から得るものがある筈だと暮らし方を変えてみようとしている。ゆとりだけではゆとり教育と一緒で、生活のレベルを低下させるだけである。
生活のパターンを変えてみることで、なくした何かを取り戻せるのではないか。
つまり古人になってみることなど。
古人は決してスローではなかった。生きてゆくのにそんなに余裕は無かったはずです。
ナマケモノのようなスローな人間も居たにはいたであろうが、人として生き残ってきていたら別の動物になっていたでしょう。
人は厳しく動物的感性と人として思考の両方を鍛えて進化してきた。
しかしここ1000年、しかもこの100年の間に急速に思考の技術を体や頭から離れたところの文字や科学技術で膨らませてきた為に、脳の容量に思考の占める割合が大きくなり動物性を働かせ難くなってしまっている。
古人に近付くには思考の武器を少しは捨て去るしかない。或いは便利すぎる生活の武器を捨ててみるしかない。つまりスローにするのではなく、ローな生活に戻してみる事です。
それによって感性がよく戻るかもしれません。
禅の修行や瞑想はこれを積極的に試みようとする一つのものです。
箕面の仙人はそれをしているそのものなのでしょう。
どのような感性を呼び戻されておられることでしょうか。

行者が無理なら仏に近づこうか

マイク

2006.625

役行者に憧れて立ち上げたこのページだが 寄る年波のマイクには少しずつ遠のいて行くような気がしてきて情けない
行者・修行には縁がなくなるにしても 仏・悟りには近付いているのではないかと思って慰めておこう
ひょっとするとこのページはいつの間にか 梅原猛さんのよく言うように 皆さん 仏になれるんです とマイクも言うようになっているかもしれませんが それならそれで いやそんな恐れ多い事には到りませんが 自己満足するぐらいの境地に達している事でしょう

聖徳太子が根付かせ 行基が民衆に広めた諸善奉行(良いことをしろ)諸悪莫作(悪いことするな)が 明治100年で魂を忘れたと梅原は嘆くが しかし梅原の凄いのは 仏教は宗教を越える思想だとも言う
梅原が百まで法を説くと言う思想を マイクもお手伝いして広めるなんてそんな夢を持っているだけでマイクも百まで生きられるような気がしてきた
いや全く年老いても益々調子に乗りたいマイクです
しかしよく考えると 仏になったらお終いで その前に修行修験すべき事を忘れてはいけないのです
風雪に耐え育ち 花を咲かせてからでないと実はならないのです

白幽に思いあり

フェイク仙人

2006 915

白隠禅士の夜船閑話を読んだ。禅を学問し過ぎて心身症になって死にかけの白隠が、富士の麓から北白川の山中に来て白幽仙人から内観の秘法を学び蘇生した事実を自ら書き記したものである。
腹式呼吸で丹田に血気を集めるに尽きる事をもっともらしく説く。
並易しい事ではない事を私のいまだ至らない修行の真似事で知っているだけに、一寸眉唾するが、禅・ヨガ・ピラティスなどでも流行っており、そうかと思わせるようようにも思う。
気を下方に、水を上に集める。頭寒足熱を内観の気力で成し遂げれば健康長寿を約束されると言う。やるに越した事はない。これしかないのです。日頃ジムで、テレビを見ながら、布団の中で。簡単ではないと知っているが死ぬまで工夫努力あるのみでしょう。
何れは白川にて白幽に思いを馳せて修行したしと思う。

シンプル行者シンプル仙人

サラリー行者 20061229

白幽仙人に憧れているのですが、その理由は余り記録が残っていないからで、それは役の行者も確かな記録としては少ないのと似ている。その分シンプルに理解し自己流のフアンになれるというものです。エピクロスも絶版だが岩波新書の薄っぺらい一冊がすべてであるので若いときから信者になってしまった。
シンプルがいいし融通性があるからいい。大偉人に近付くには相当な書に接し時間を掛けても足元にも及ばないというのが分かっている。凡人にはこれくらいがピッタリでいいのではないか。
白隠禅士の概論書を読んだがそれだけでも大変であった。空海を知ろうとすればもっと大変である。ソクラテスやプラトンでも大変である。まして近代の偉人になれば益々多大な全集があり関連書が満ちあふれて、勉強しても何のためか分からずに終わる。シンプル行者、シンプル仙人、これが凡人の理想なのです。

 

あまり深い話がないのは やっぱりマイクの修行不足なのかもしれないが 行者がシンプルである所為かも知れない

そこで ウィキペディアの助けを借りて 役行者のことを転記することで シンプルに済ましたい

何よりも シンプルのままでいいから 早くマイクは元気なうちに修業を実践することが大事なのです

と言いながら腰を痛め 何もせずにただ飲むだけの悟りで 老いが訪れてくるのをひしひしと感ずる

これは遺憾と思うのですが何とも…

 

小角の展覧会やフォーラムがあった

投入堂に行った

熊野古道中辺路や亀岡の山中に密かにある小角の石仏を発見したり

未だそれ位の 役行者ファンでしかないのですが ファンで済ましたくない願望だけは…

箕面にホームレス役行者伝道者がいる 巡礼36寺社がある 白幽の修験の地が近くにある まだまだ浸りたい

 

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役行者の詳細を 下記の出典で転記します ご参考まで

出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』2008.2.11

役小角

634 - 706

尊称 神変大菩薩、役行者

宗派 修験道

役小角(えんのおづの、えんのおづぬ、えんのおつの、634年伝 - 706年伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。

続日本紀にみる役小角

『続日本紀』は、文武天皇3年(699年)524日に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝える。同書によれば、小角ははじめ葛城山に住み、呪術によって有名になった。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。

 

『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書で、創作された話が入る性質のものではない。事情の細部が説明通りかはともかく、葛木山から来た役小角という呪術者がいて韓国広足の告発で伊豆島に配流されたことは史実であろう。それから約百年後に、役小角は鬼神を使ったという話が広まっていたことも信じてよい。

 

同書はまた、2年後の大宝元年(701年)11月に大赦があったことも伝えるが、役小角個人には言及しない。

 

日本霊異記にみる役小角

役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。後世に広まった役小角像の原型である。荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。

 

霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金剛山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

 

その後の役小角像

634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。17才の時に元興寺で学ぶ。このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。

 

二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。

 

699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。

 

70167日に68歳で箕面の天井ヶ岳にて入寂したと言われる。

 

後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。

 

天河神社や大峯山龍泉寺など殆どの修験道の霊場は、役行者を開祖としていたり、修行の地としていたりするなど、必ずと言っていいほど、結び付けられている。

 

神変大菩薩

寛政11(1799)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。

 

勅書は全文、光格天皇の御真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

 

信仰

役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

 

肖像

修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。

 

伝説

 葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼とを従えた図像が有名である。ある時、葛城山と金剛山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛城山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

 

また、役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。

 

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。

 

関連項目

布引の滝

大峯山

大峯奥駈道

生駒山 - 夫婦の鬼である前鬼と後鬼を改心させた場所といわれる。

修験道

役行者霊蹟札所会 役小角ゆかりの寺院・神社が36ヶ寺社集まってできた霊場

 

以下8件はマイクの追記

行者餅 京菓子司柏屋光貞 京・東山安井 大峰山修験を終え斎戒沐浴し 行者山巡行前夜宵山壱日限りの供え

役行者山(山鉾) 京・中京・室町通三条上ル 巡行前日護摩供養

三徳山三仏寺 投入堂 706法力で投げ入れて崖にへばり付く

茅原山吉祥草寺 本山修験宗大本山 御所市茅原 誕生の霊地なり

総本山金峯山寺蔵王堂 2000.5.126.7大遠忌法要公開日本最大秘仏金剛蔵王権現像 12月まで役行者ルネッサンス1300in吉野

犬鳴山七宝滝寺 修験道資料館 泉佐野市 小角創建の修験道場

聖護院門跡 京・左京聖護院中町 醍醐寺と共に 山伏総本山 67日命日献茶法要

葛城の道歴史文化館 及び 葛城一言主神社

 

役小角が登場する創作作品

真幻魔大戦(1979年、平井和正による小説)

宇宙皇子(1984年、藤川桂介による小説)

総門谷(1985年、高橋克彦による小説)

鬼神童子ZENKI1992年、原作:谷菊秀/作画:黒岩よしひろによる漫画)

真・女神転生

アカイイト(2004年、サクセスによるゲーム)

 

以下5点はマイク・サラリー行者の追記

七人の役小角」夢枕獏の監修 20003月の初版 司馬遼太郎・黒岩重吾・坪内逍遥など著名な作家が取り上げた役小角小説である

黒岩重吾の遺作となった「役小角仙道剣」新潮社

五木寛之の 「風の王国」新潮文庫 サンカと役行者とを取り混ぜた 走りの行をも組み込み フリーメイソンとも重ね合わせた優れた時代性と 歴史性

役行者神変大菩薩1300年遠忌記念「役行者と修験道の世界〜山岳咽喉の秘宝〜」展1999.11.212.5大阪市立美術館の図録

近畿36ヵ寺社 役行者霊蹟札所出開帳 及び文化フォーラム 2004.11.1923 根本山神峯山寺(高槻市)に於けるフォーラム資料

 

外部リンク

役行者霊蹟札所公式ホームページ

 

以上役行者 について

白幽子 白幽 についても

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008.2.18

白幽子(はくゆうし)は、江戸時代に京都白川の山中の岩窟に住んでいた隠士。数百年生きた仙人とされる。

文禄年間(1592-1595)頃には京都の白川の山中に住み、石川丈山は白幽子の弟子であったという。

1710(宝永7)に、禅病に苦しむ白隠が白幽子が住む岩窟を訪れ、白隠に内観の法を伝えたとされる。白隠は『夜船閑話』、『遠羅天釜』にその時の顛末と白幽子から伝えられた内観法の内容を記している。

京都の真如堂に、かつて白幽子の墓と伝えられる石碑があったといい、そこには没年が宝永689日と刻まれていたという。一説には、享年240であったともされる。

 

 

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KTVニュース関西版のサイト2010.9.9に マイクの尊敬するホームレスの二人のうちの一人が逮捕されたとある

この日のBBSにマイクの思いを早速書き込んでいますが ここに記事をコピーします

公園に小屋建てて不法占拠 自称・武道家の男を逮捕

 

 

「住所は公園」

大坂府箕面市の公園の一部を不法に占拠していたとして自称・武道家の男(60)が逮捕されました。男は容疑を否認しています。
箕面市が管理する公園の片隅にはド派手な建物があります。看板には「道場」と書かれ、住所は「公園内」となっています。この建物に住んでいたのは韓国籍で住所不定自称・武道家の金長守容疑者(60)で、公園を不法に占拠していたとして警察に逮捕されました。警察の調べによりますと金容疑者は、およそ9年ほど前から公園内に住み着き、行政代執行などで建物が撤去されるたびに、公園に戻ってきていたということです。【近所の学校に通う子ども】「金容疑者が『住所があるから見てくれ、ここはちゃんとした家だから』と話していた。どんどん家が豪華になっていった」。調べに対し金容疑者は「住所不定ではない。事実無根です」と容疑を否認しています。

( 2010/09/09 19:35 更新

 

 

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