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マイクの日頃の思いをBBSに書き込んでいます

皆さんからのBBSと合わせ 時々それらを拾い集めて ここに綴って見ます

纏まりはありませんが オリジナリティを自負するものばかりだと思います

思い上がりでしょうか 兎に角 記してみます ご意見戴きたく候

 

そんなこんだで BBSの内容を纏めて マイクの アート論 ボランティア論 をページに出来ました

下記のページにジャンプして マイクの思いを是非お読み下さい

 

 

マイクのアート論(アートは修業と修行の・・・・)2005.4.23

アート論その2 (アート アーテイストの分類と 計数評価)2008.1.31

アートの使命 センターの使命(アートセンターミッション考)2012.3.9

 アートにもミッションがある ソーシャルなアートにも光を

 

 

マイクのボランティア実践論(疲れます・・2005.5.31

マイクのアンチボランティア(ボランティア論2)2007.3. 3

ミッションコミュニケーションのあるボランティアが当たり前な そんな京都を願っています

 

 

こんなエッセーにも お目通しをお願いします

心いけいけ? こころ元気 心いきいき(私の残り少ない現役の生き方)2018.17

自分探しの余生!絆を大切に(私の残り知れない余生の生き方)2010.5.6

ビバメヒコ(マイクの京都姉妹都市グアダラハラでのダンス公演報告)2010.10.23

私の年賀状(2000年からの年賀状 ここでもマイクはボヤいています)2010.12.13

私のスポーツ道(マイクのスポーツ嫌いのスポーツエンジョイな生き方を)2010.12.31

ニューヨーク事情(芸セン次長に聴く 弥次喜多アメリカ出張談義)2012.2.25

 

 

私のダンス道(フリーダンサーマイクの素人考え コンテンポラリーダンス2011.4.21

研究 ダンス道(フリーダンサーマイク ダンス論勉強する気になって2011.7.11

私のダンス歴(2007年からのマイクのダンス公演履歴)2015.3.1

私のダンスその2(2015年からのマイクのダンス公演履歴)2015.5.8

私のソロダンスダンス公演履歴 番外編2015.3.1

 

 

若き頃の作品を 懐古趣味でしかありませんが ボチボチと載せて行こうと思います

月のある夏の夜の(皆既月食に心痛む天文少年の懺悔のショートショート2011.9.9

山のお話し MONT CONTE(大門高三郎20才の初めてのショートショート)2011.9.11

 

南太平洋冒険旅行のための計画論文平凡パンチ 冒険計画論文募集に応募2011.9.23

 

宇宙の起源について(金沢大学物理学科ニュートン祭文集)2014.11.9

 

 

まだまだ遊びながらも 残り少ない余生に ミッションを探し求めて生きてゆこうとしています

 

 

ご意見 ヘルプメッセージは この掲示板から是非ともお願いいます

最近 今様芸術の事ばかりになっていますが 新しい話題でも何でもお願いします

 

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 初めのころのBBSを 下記に テーマに分けて 纏めてみます

目次

ジャンプしません スクロールでお願いします

今様アートとは

遊びであり 偽善であり 哲学であり

アーティストに

真摯であり 詐欺師でもあり 商売でもあり 仙人でも

アートセンターに

箱ものからの脱却 役目色々 税金で

市民として

生活として 癒しとして

ボランティアに

役目があるが でしゃばらず 掛け橋として

京都ビエンナーレ

成功祈るばかり・・・・・・・・・終わりました

 

 

新しいテーマ

これからどんどん作ります   BBSに書き込みを

少し古いマイクの思い語りも BBSの最後に残していますので見てください

以前の分の目次

古い雑感色々のテーマも一部残してあります

文化・芸術に思う

文化ボランティアをしながら サラリーマンの心の貧しさを感じてしまう

バイクも人も車も

平等なのです  何処の国でも 男女も然り モラルを失った日本は恥じ

商人道の復活を

石田梅岩の心学・三方よしの近江商人道を学ぶ  三河商人は今

 

これまでのBBS(とは言っても 最近のものは出来るだけ解説ページに纏めるようにしようと思います)

2003・11.13までのものです   その後のBBSもぜひご覧いただきご意見ご叱声お願いします

 

今様アートとは

個人的遊びでしか

 

ポコテン

コンテンポラリーアートは、感性だでけではなく考えや思いを表現する個人的な遊びである。
哲学ですら個人の主観であるとしか云い様がないくらいの、大脳皮質の考えの遊びである。
益してや哲学者には程遠い遊び人の作品だ。
哲学の言葉の詭弁に較べれば軽い個人的な遊びだ。
小脳や間脳に宿る本能に訴えるものがある感性作品とは、本質的に違う。
それにしてもまだまだ理性を磨かねば、本能も理性も中途半端なポコテンポラリーアートになろう。

 

 

利己的アートと無関心市民

 

マイク

現代アートは 何でもありの状態で 未完成である点を何時も考えさせられます
利己的な現代人アーティストと その身勝手さに耐えられない見る側の葛藤を何時も感じます
それ以上に見る側市民が 欧米と比較し 文化を欠損した働き蜂であって 果たして経済が続くのでしょうか 限界を危惧する
文化こそ経済の源泉である事を 忘れてしまっていると 何時も感じます
スポーツやグルメだけが文化なのでしょうか
新しい文化を探し 創っていかなければ 美しい日本や 豊かな日本には 再生しないでしょう

 

 

双方向のコミュニケーションアートでなければ

 

マイク

数日前 京都演劇フェスティバルコンクールの4作品の一つの公演を見た
素人の私には全く冗長なもので 全く楽しめなかった
難解なものは 分からなくても納得できる 昔のフランス映画のようなものだったら
この劇は 難解と言うには 軽い
作家や演出家やキャストは懸命に訴えている事が無い筈が無い
それが分からない すごいストレスで終わった
後日 劇団との対話に参加する機会があった
懸命に訴えるものが何かを知った
ストレスが抜けた そしてもっと演じ方 やり方があるのではと思った
そして昨日 この劇が大賞をとったと知った
すごくショック
私の理解力のレベルの低さ
失礼な考えだったのか
しかし思う 演劇は鑑賞者と最もコミュニケ−ション出来るアートだ
それをしてない今の演劇は不完全だ
パンフレットで事前に知らしめる事や アフタートークで コミュニケーションする事が出来る筈だ
双方向アート この事がこれからのコンテンポラリーアート全般にチャレンジすべき事のように思う
難解なアートも理解の為に努力すべきである それがアートの使命である
やり方がある 表現が出来るはずだ 双方向の 

 

 

今様アートはゴミ

 

在家のアーティスト

最近テレビで自転車などのゴミの山となった家を綺麗にすると言う作戦ドキュメント「黄金伝説」とかが人気がある。ゴミはその家の人にとっては黄金なのです。
芸術家には作品は自分にとって宝物なのです。他人にとっても宝物である事は中々難しくもあり、そうあるべきかどうか、そうでなくとも芸術でありうるのか。特に最近のコンテンポラリーアートはゴミに近く、この問題をはらむ。
この疑問を解決するのは確かにご指摘のように、作家と鑑賞者の双方向のコミュニケーションがなければならないのでしょう。芸術家になるか唯の身勝手な趣味人であるかを決めるのは、鑑賞者であり評論家任せでは駄目である。尤も鑑賞者は評論家の助けをうんと借りなければならない。
こんなことを考えさせるゴミ問題でありました。

 

 

純アートとは

 

在家のアーティスト

アートとは何かを定義してみる。
純ART=メッセージ+実感
であってメッセージの創造性・深さ・広がり・可能性の質によってレベルはあるものの それがないものは 唯の遊びである。
加えて実感つまり体感がなければならないのだが 感性までに留め置くべきもので 理論考証・知性を必要としない動物的体感を与えるものかどうかが純ARTを決めるのである
然しメッセージも実感も作者が意図するべき必要がある
意図とは言葉で確認されたものとなる。
作者側の実感は理論考証を経ねばならない。
それがなければ唯の個人の趣味遊びである。
受け取る側はメッセージも実感も作者の意図するものを知性で見てはならない。
感性で実感しなければならない。
知性で見てはならないが、言葉にする事は必要なのです。ここが難しい。
その結果、作者と受け取る側がマッチングしているかどうかは重要な問題である。
この点をないがしろにし、夫々の思いのままで済まそうとするならそれは、それは作者と受け取る側の関係が唯の他人同士で済まそうとするだけの、つまりARTとしての繋がりを失うだけの事だ。
純ARTに言葉があってはならない。
言葉のあるアートは知性の表現の別のジャンルのものだ。
なのにつながりは言葉でしか繋げない。
これを解決する双方向アートのシステムがある。
それは・・・。

 

 

アートの使命は表情を変えること

 

マイク

感性だけの今様アートが流行っておるのは アートが若者の生活レベルに嵌まり込んできているといえるのかもしれません
その若者は大概フリーターとかで 金がなくとも時間のある少し賢い連中ばかりのようで 賢くサラリーマンしている連中や 大方の若者はアートある生活をしているとは思えない
日本人の 特に年寄りの表情を見ていると 生気があるとは思えない
表情に思想や余裕が見えないこんな先進国があるだろうか
アートが日本人の表情を変えてくれる そんな使命がアートにある
古の洞窟壁画や仏像は 社会性を使命としていた
近代アートは技と美を使命とした
現代アートは個性と思想を使命とした
いま同時代アートは今また社会性を使命に パブリックに開かれる事を使命とすると思う
日本人の表情を活性化させるために

 

 

アートは鏡を通した虚実

 

マイク

ボランティアする京都芸術センタ−
そこで今 二条城美術離宮 なるテーマの5人の作品が展示されている
中に三嶽伊紗なる何が何んだかかわからぬ作品を続けている作家がいる
本人に聴いても言葉で表せないくらいの難解な 然しそこには詩があるという
詩や句 まして言葉のないアート作品は 作者の鏡を通して映った虚像である
虚像を見て実像を探ろうと言うのは 謎解きみたいな 詩そのもものだ
まして歪んでいるか 薄ら汚れているであろう鏡では 分かろう筈がない
ややこしいことに彼女の心の鏡は 物や 事を 全く別の二つの事象(作品)に分解してしまう と言う
虚数に正虚数と反虚数があるようなものだ
正反虚数から実像を掴めということは彼女も期待していない
それが詩であると言い逃れている
それを楽しんでいる
詩は楽しい
然しそこにアーティストの隠蔽作業を見る
アーティストの生きる掟なのでしょうか

 

 

 

 

 

アーティストに

マイク

マイクは今夜 芸術センターで3年間コーディネーターをしていた女性で 先の11月からプラハコンテンポラリーアートセンターで レジデンスアーティストとして ある日本企業から文化助成を受けて 活躍された女性の報告会を聞いた
プラハは 経済面では未だ豊かではないが 文化資産面でとても豊かで 心豊かな街であり 欧州で一番綺麗な街であると言う人もいる
何よりもそれを感じさせてくれたのは彼女自身であった
彼女は4年前に仕事を始めたときは未だ初々しい女の子であった
3
年契約のコーディネーターの仕事で 彼女の成長は凄い物があって 精悍と言っても良いほどたくましく育った
その彼女が 今日4年前の初々しさに戻っていた
それが何を意味するか 初々しさは更に一回り成長したと言えるのか
答えるまでもなく プラハの街のなしたところである事だけは確かである
京都の町には プラハに行って心洗われてはと勧めたい 日本人も多い

 

 

マイク

コンテンポラリーダンスを理解するのは大変である
好き嫌いで理解しょうと それを理解しないで済まそうとも どちらでも良いのかも知れないのだが 私にはそうは出来ないのだ
アーティストの気侭と言うか アートは見る側に対して一方的です
作品を見せるが作家を見せようとしていない
見る者は作家の軽さや重さを感じたいのですが 作品だけでは分からない
コンテンポラリーダンスそのものの奥深さを体感できぬまま唯軽く見るしかなかった
京都のさるコンテンポラリーダンサーが さる古典的演劇を見てその演出家に 門外漢としての私見を述べられた
真髄をずばり指摘された 奇麗事でなく演劇の為に 観客の為に 的確な批評をされるのをマイクは見た
コンテンポラリストに真摯な人がいるとは 信じるも信じないもその機会がなかっただけなのですが これまではいなかっただけに 本当に感激した
これからコンテンポラリーに接する度に 私は先入観を捨て コンテンポラリーのパワーを信じ 真摯に物事を見つめ 感動できそうである
そこらがコンテンポラりーの難しさであり パワーなのでしょう

 

 

在家

芸大在学生の作品展を見てきた。どれも感性に優れていると言うか確かに面白い。
どれも無題である。そして無芸である。
若い時でも作家に技があるかないか、才能が有るか無いかは見る人が見れば分かる。
若い時は感性があるかないかも勝負だ。これは優れてあるように見える。
このどちらか一つが欠けていれば 趣味遊びになろう。芸大に遊びに来た学生は、それはそれで良いと言うかもしれないが、教授がそのように指導していいものかどうか。
若いのだから自分を表現するほどの人格や思想がなく、唯の感性でしかないと、無題にするの止むを得ない。
これから作り上げる人生修行で出来上がるだろう。
然し修業しなければ技が磨かれる可能性は少ない。
芸術かとして社会に存在するには必須であると思う。
修業と修行がアーティストの生きた結果であるはずだ。

 

 

在家

在家のアーティストは何故在家なのか。白状します。
僧侶と言う職業の僧は本当に僧足りうるのか。そんな疑問をもっています。
修行僧は確かに僧である。僧でしかない。
在家で修行するものは確実に僧です。何かになろうとしているからです。
僧侶は修行しようとしているのでしょうか。しなくてもそれなりの地位・権限を持ち合わせてしまっています。しなくてもいい人なのです。
アーティストでも同じです。
芸術大学の先生は僧侶です。
修行僧である駆け出しのアーティストと、僧侶である大学の先生がアーティストであると言う事は、同じアーティストとは言っていけない違いがあります。
分かる人は判ると思いますが。アーテイストは僧侶になってはいけないのです。
何故こんな事をいうのか。それなりの思いがあるのです。

 

 

マイク

修験の道は極める事にあり 自らのためだけでなく 世の為世間の為である
教授になる事は 自らの道を達成してしまう事で 更なる道を捨ててしまい易い
僧侶としての地位を得たものも然り
なまぐさ坊主ならずとも僧侶はその励みの道を 営業に掛ける つまり布教である
布教も宗教の大切な修業である 自分の為でなく世間の為
アーティストも修行と修業の成果を 修行僧の托鉢に相当する制作発表で確かめるだけでなく 営業活動も成果を確実にする為に重要である
自分の利益の為ではなく 世のため世間の為の布教のために営業を忘れてはならない
アートにも営業を アートにビジネスを

 

 

マイク

それにしてもアーティストは 何と真剣で 嵌まってしまう人たちなのだろうか
先日横尾忠則展を見た
若い時から変わっていたが ただ変わっていただけでは あれまで有名にならない
自分の世界に嵌まってしまっている
長時間掛け 一日中 時間を気にせず それだけに
だからあれだけの作品が出来ている 膨大な数であった
そんなに好きな作家ではないが ただの人ではないことはわかる
京都芸術センターで ボランティアとして 作家さんの制作をお手伝いをするようなそんなさ作品が最近多い
そこで作家さんのありように接すると 正しく自分の世界に嵌まっている人たちばかりである
しかも真剣
つまりプロのアーティストである
サラリーマン上りの私には プロのビジネスマンの心得が足りなかった
それでも飯が食えた
しかしアーティストとは 食えるアーティストとは 真剣さと 誰からもそう見える嵌まりの人であることなのではと 思ったりしています  (マイク)   以下は在家さん

京都芸術センタービエンナーレの作家さんの制作にボランティア参加しているそのひとりがマイクさん。
その作家さんは江戸の左官屋アーティスト。
聴くところやはり嵌まりの人。竹と土の自然素材の生活空間をビエンナーレ作品として2ヶ月をかけて製作中である。
江戸の人が京都で、アーティスト・イン・レジデンスとして頑張っておられる。連日の暑さの中凄い執念で励まれている。
ボランティアの応援がなければ開催に間に合わない。
ボランティアへの期待にも焦りが見られる。当り前だ。真剣そのものなのだ。
江戸の人が京都の人に何かを頼むに付いては、江戸流に頼む。当り前だ。
真剣であればあるほど江戸流だ。
面白い事に、人使いが荒いと皆言う。江戸流だ。京都人にはそう写る。
然しその真剣さを見て皆参加し、遣り甲斐を感ずる。
マイクさんは腰を痛めてもまだ頑張ったと言うが今は、コルセットをして休む嵌めになったそうだ。
京都の人は江戸の言葉や人使いになれていない。きつく感ずる事があるようだが、心意気は通じて皆着いて行く。
嵌まりのアーティストに嵌まって行く。
いつも自虐的なマイクさんは、腰を痛めてもっと嵌まっていく。早く直してもっと嵌まりたいらしい

 

 

 

 

 

アートセンターに

 

 

 

 

 

 

市民として

ポコテン

京都とは言わず日本中の秋は芸術の季節だ。色んな企画展があちこちで賑っている。
劇場も賑っているようだ。しかし何処も来場者は古典・近代のジャンルでおばさんが主体。
日本では若者のほんの少しが、変わり者だと、若者からも小父さん小母さんからも見られながら、現代芸術にチャレンジしていて、企画も少なく、見る人も少なく、寂しい限りである。
多分こんなのは日本だけで、欧米や韓国までもがコンテンポラリーをチャレンジし楽しみ、生活を創造している。
大人も子供もチャレンジもせず、既成のものを受身で楽しむ。イージ−である。これが豊かなのだと信じてしまっている日本。まだまだそんな日本。
コンテンポラリーアーティストが心豊かだと思わせるような、立派な作品や作家があるとは思えないような、未熟な段階の芸術であるように思うが、それはそれで、生活やそのための産業経済のためには、作り上げ完成させる価値のあるものだ。
そのような活動が見られない国は行く末が案じられる。

 

 

ポコテン

コンテンポラリーアートが日本を救う。その通りです。
そして今、エコも日本を救う。その通りです。
アートは文化のモラルの鏡である。
エコは経済のモラルの鏡である。
モラルあっての日本です。
それがない。
町並みの景観破壊。自然の環境破壊。人間としての恥の喪失。
取り返すに必要なのはアートであり、モラルである。結果が文化であり、エコである。
ポコテンはポコテンのやり方で、久保さんは久保さんのやり方で。
出切る事を少しでも焦りながら、少しでも多くの人がやってくれるように、やりましょう。

 

 

在家のアーティスト

マイク

始めまして。生活しながら芸術を心がけるものです。ゴミも生活のアートなのです。生かすか殺すか、それがアート。ゴミこそ生活を訴える。以上。

 

サラリーマン生活者であったマイクは 生活の中にアートを との思い強く 生活しながら アートに思いを馳せる 在家のアーチストこそ 今の日本の文化レベルを高める為に 牽いては日本経済のレベルアップのために大事な事と考えています
こういう人たちを企業人は理解し 応援しなければならない 頑張ってください
生活にアート
大事なキーワード
ゴミもアートのキーワード
美しいゴミと言ったほうが言いでしょう (マイク)

 

 

在家

今夜京都芸術センター日韓プロジェクトの演劇シンポジュームを聴いた。
同じ作家の演劇を日韓の演出家によって競演するものであった。
ともに優れて楽しかった。
そのシンポジュームで知った。
韓国の演劇の市民への裾野の深さ。
しかも演劇だけではない。
文化芸術が市民生活に蜜に入り込んでおり、それは芸術が市民にオープンであり誰でも何時も参加できる垣根のないものであると。
日本の芸術はクローズで寄せ付けない事でレベルを保ってきたのだと。
裾野の広さでは負けていると真剣に認識しなければ、韓国どころか中国にも既に負けているのだと日本人のどれくらいが認識しているのだろうか。

 

 

 

 

 

ボランティアに

 

マイクのボランティアする京都芸術センターは コンテンポラリーな作品が多い
難解で 人によっては馴染めなく 理解を超え 唯のゴミである
アーティストは修行僧であり 理解できないお経を唱えるだけではゴミである
お経をあげるだけでなく 理解できるものに諭すのも修行の内だ
ボランティアはお寺にお参りにくる大衆の立場にたって お寺や修行僧に お経を生きたものにしてくれと助言する事や お手伝いするところに存在価値がるのです
昨日の全国文化ボランティア大会で文化庁河合長官等とのパネルディスカスでパネリストとしてこんなことを言う機会を得た
分かってもらえたかな〜

 

 

マイク

先日滋賀県立美術館へ行った
常設展3室の作品解説は毎日2時からボランティアに任されていて盛況であった
それなりの努力と時間があって出来ている事と思う
やりたい人やれる人が一杯いる私たちの芸術センターも負けずにやるべき事やれる事を少しづつやりましょう

 

 

 

 

 

京都ビエンナーレ

ポコテン

都ビエンナーレが2003104から一ヶ月間催される。
美術哲学者ディレクターの発案する、スローネス ウイズイン ファースト(速さの中にゆっくりを創り出す)をコンセプトとする。
コンセプトは思想を語る。
作品はその問いかけに答える。
作家は本当にそれに答えられるのであろうか。
勿論正解でなくていいが、答えようとしてくれているのか。
ディレクターの言う気分や態度であるコンセプトに、芸術的な形を与えるに十分哲学修行した、或いは深い感性とその表現技を修業した作家であろうか。
始まってみない内に想像するに、何時ものようにコンセプトに答えようとする作品は先ず無かろう。
唯あるのはスローネスくらいではないだろうか。それも形にならないものも多いのでは。
語れぬ作家、思考に欠けるの作家、語らぬ作品、黙る方が賢いのかも知れぬ。
然しそれではまずい。
それを救うのは、鑑賞することになる芸術を愛する市民が、作品と作家と企画者とに抵抗する、そのコミュニケーションが実現するかどうかだ
そのための遊び心の空間を作るだけでなく、コミュニケーションの実現の努力責任が企画者や行政にある。
ポコテンは成功を心から祈ります。

 

 

マイク

ポコテンさんの曰く ビエンナーレでは見えないであろう哲学は 鏡の向こうのものになってしまった隠蔽された作品を コミュニケーションで鏡の前に引き出し 作家から答えを聞き 時にはあばき 自分でも答えを見つける機会とする事で作られてゆくでしょう
ビエンナーレの成功 私も願って止まない
私は センターでボランティアしながら 鏡の向こうを 遊び心で読み取りたいと思います

 

 

ポコテン

ビエンナーレを見る。
今ひとつ映像が古い。
デジスタやゲームセンターに負けている。
それでも中に、アンケートを求める珍しくも真面目な作家がいた。
コミュニケーションしようとしている。嬉しい。
その作品は女性器の石膏型取りだが、膣内部まで繋がっている。
製作過程の猥褻性で裁判沙汰になっていると言う。
人間クローンに反対する意味を込めている作品だと言う。
私のアンケート解答は次の様。
この作品にそのような思いを込めたつもりであっても、その工夫が何なのか。唯の型取りでしかないものから、意図を汲み取れと言う身勝手。作品だけでそれ程の表現力を持った今風アートに出合ったことは無い。
至らぬ作品であっても言葉で補う事ができる。思いが哲学的であれば尚である。
逆に思想がその表現を言葉だけでなく、芸術作品を通してインパクトを与える。
それが今風なはずだが、語らぬコンテポラリ−が多い。
個人的遊びとしての作品はそれでも良いが、パブリックを利用した営利的遊びはモラルとして如何なものかと

 

 

マイク

成る程
その中にコミュニケーションの見えるものがあるとすれば カフェと かまど付きあずまや位なものか
それでもスローネスを問い語るコミュニケーションになるのかどうか
昨夜は市役所前のパフォーマンスを見た
投げ銭の無い大道芸だった

 

 

ポコテン

私も今日、京都芸術センターで裸のパフォーマンスを見た。
スローネスと言うより、思考すらとまってしまいそう。
その前に彼らのシンポジュームを聴いた。
コミュニティアートと言うよりコミュニティのアート性を論ずるなど優れた思考言語をこなしている。語れば、つまりコミュニケーションすればとても魅力的で優れたアーティストである
マイクさんの見たパフォーマンスもまた無言であったそう。
無言の大道芸やパントマイムや、或いは手話と較べようとは思わないが、アート性が何処に如何あるのかを少しは感じたい。
コンセプトが素晴らしいだけに。

 

 

在家

そんなもんでっせ。所詮アーティストは曖昧なもんや。曖昧だから喰えないとか、曖昧や隠蔽を武器に喰っているとか
古典の評価基準はそれなりに確立している。今様アートは試行期。
だから曖昧なのは致し方ないが、それを営利に利用して詐欺的でもあるのではないかと思うものもある。
この事に気付いているアーティストは、指摘されるとアートはそんな真面目に考えるものではないという。まるでお公家さんや武士や官僚がその特権に触れられたくないように。
政治・行政も欧米に遅れながらも、経済は韓国・中国にまで送れて、開かれ様としている。
なのにアートはそれらに遅れ、東欧にもブラジルにも送れ、と言うのが京都ビエンナーレで言いたい事なのでは
アーティストでない哲学者が言っている、と言うより哲学者の使命として言っている。

 

 

マイク

速さの中にゆっくりを創り出す
ビエンナーレの問い掛けを頭に置いて 昨夜2時間はウディチコなる作家の作品監視をした
ポリスカーと題してある
手作りの一見幼稚な乳母車か戦車
一寸見はこの会場のどの作品より いや二番目と言っておこう 楽しい
唯見ただけではそれまででしょう
コンセプトの問い掛けに如何答えているのか
乳母車くらいのスローネス感を誰でも考えるが ポリスカーから警察をイメージしてはいけないらしい
英語のスペルがあって それからは 分かる人は都市国家と知る
子供用の戦車の玩具をイメージするならスローとは違うでしょう
この車はNYのホームレスとの係わり つまりコンセプトの中にある大事なコミュニケーションとしてのツールらしいが ここでは役をなしていない
作家はポーランドを脱出しアメリカに住むMITの教諭だと言う
京都の何処かの収蔵品らしい
著名な作家の思想一杯の作品であり これだけを見にくる人がいる
だからと言って リーフレットの説明が簡単で キャプションもささやかで フライヤーも無い
センターの企画でなく 京都の企画である
哲学をしょうと来た人だけではない筈で ヴェネチアほどでは無くても 横浜や釜山や北京や せめて妻有を期待しやってきます
今からでも

 

 

ポコテン

その通りの期待と使命の京都ビエンナーレの筈です。
ディレクターの認識せねばならない使命である。本当に意識しているのだろうか。
ポコテンはパフォーマンスに投銭する気も起こらず、また何がスローネスかを求めても、作品からは期待できないのであれば、彼らの言葉からは聞けるかもとシンポジュームを拝聴した。
今夜で3テーマ聴いた事になる。聴衆がいない。内容がない。それでも自己満足している様子。
ストレスが溜まる。
アートのパワーとアーティストの魅力を信じ期待するポコテンである。
アーティストの市民無視した実態を見るばかりで、悪いものを見ただけであった。
これが哲学者のやることで、こんなももがアーティストだとは思っていない。
京都ビエンナーレのたまたまの特殊性なのであろう。
そう思うしかない。

 

 

マイク

せわしい生活の中で スローネスはゆっくり自分で考えなさい
そう言うだけですと 京都ビエンナーレは堂々と言う
だからもう終わったようなものです
そうなら自分で考えましょう
私はこう考えます
経済で言われるストックとフロー
西欧型と米国・日本型と言うように 資産の蓄積・回転の速度が 経済の質を決める
文化にとってもストックとフローが文化の質を決める
ストックだからスローと言うわけではない
フローだからファースト回転になるとはいえない
如何にすればロングでビッグな文化でありうるか
如何にすればクイックでスモールな文化でありうるか
それが質よい かつ持続的で効率的なシステムであるか
それを見つけて アートはそれを数値ではなく 五感に知らしめてくれるというのが使命ではないのか
それなくしてアートの出番はないのでは

 

 

ポコテン

ストックとフローの夫々のスピードの組み合わせから、本当の文化の質がポートフォリオされるという考えには、何か答えが見そうに思います。もう少し捻ってみましょう。
ミームなる子供達のシンポジュームには参った。爺さんだけならまだ分かるが、優れた哲学者まで多分自分の仕掛けとは違っていると思いながらもそれに乗ってしまっている。
子供達が二人のつるつる頭にペインティングさせるパフォーマンスを、実り無きシンポジュームの穴埋めにやってしまう。
つるつる頭の左の後横にと書いてやりたかった。右耳の後には心の裏返し文字を。
恥の裏表を考えて欲しかった。

 

 

マイク

京都ビエンナーレが いま世の中がそうである 何でもアートの風調に対して また商業性に追従する安易なアートに対して スローネスをキーワードに 本質を考え直そうとするものである事は間違いなく素晴らしい哲学発想である
然し発想が思想に発展するにはそれなりの仕掛けとトライアルの結果があって それが検証されねばならない
その場を作っただけだと言い逃れるのではなく その仕掛けが何処にあるのか 本当にあるのかを知りたいし あることを信じられる雰囲気が欲しい 市民にも分かりやすく
市民なくして アートは無いのではないか
無知なる市民の利用も 商業主義追従も 官僚の仕事のようで アーティストの本質ではないはずだと思う

 

 

在家

商業アートやマスアートとは違うマイナーな、マイノリティーアートに光を当てることはそれなりの必然性や社会的意義はある。
然し如何扱うかには、もっと大事なモラルや責任がある。
扱い方が商業的であったり、個人的遊びであったり、もっと悪いのはお上的であったり。
哲学者もアーティストも謙虚な筈ですが、そう見えなければいけない宿命を背負っていると思います

 

 

マイク

宿命とはその目線を意味していると思います
アーティストだけでなく ディレクターや コーディネーターもその目線が 観る人が大衆であれマイノリティであれ そのレベルを意識しているかどうかである
自分自身の目線でしかなかったり 傲慢でしかなかったり お上にしか向いていなかったりではずるい
誰を対象としようとしているのかを 観る人にハッキリさせて上げなければならない
アートのモラルだと思う

 

 

ポコテン

ビエンナーレのコンセプトが速さの中にゆっくりを創り出すだ。ただスローを作り出すのではないと、こともありげに強調する。本当であろうかと今まで考える。
何の事はない。新幹線の中で居眠りするとか、今は無き食堂車を復活するとか、エステルームをはやらすとか、そんなもんだろう。
吉兆で懐石を早食いするのではなく、マクドで68円か何ぼかで2時間駄弁るとか。
今のところこれしか思いつかない。どんな意味があるのだろう。

 

 

マイク

ともあれ京都ビエンナーレはささやかで楽しい
そこが 何でもありの今様アートの現状に疑問を投げかける 巧妙で安上がりな仕掛けなのでしょう

京都が横浜トリエンナーレに匹敵するものをと考える事自身に反対しているのだ
あの横浜が取り留めのないただのアート見本市と言われても 2000円払って2ヶ月間大入りであった
無料の京都だから 来場者が少ないフリーマーケットでいいというものではない
立派なコンセプトなのだから 少しの工夫で 成る程と言わせる事は出来たはずだと思う
作家をもっと表に出し語らせなければならないのではないか
人間なくしてアートはない
だから見本市アートや 商業主義アートに疑問をもって ここでは作品をささやかにし アーティストを表に出すことで 人を訴えようとするのではないか
そのためのスローネスだと思っているのですが

 

 

在家

アートは作家の鏡を通した作品である。虚像であるアートは作家の社会的宿命を背負っているのです。
その役割を主催者がプロモートする。恰もお寺さんが坊さんや修行僧の人間としての魅力を引き出しそうとするように。
お寺の魅力を打ち出すのではなく、僧の魅力を引き出すことなしでは宗教ありえないのです。

 

 

マイク

ともあれ京都ビエンナーレは素晴らしい
皆がそう思うかどうかは知らないが その主旨を知ったものはそう理解し賛同する
間違いなく優れたコンセプトである
京都芸術センターエントランス横で ポール・ヴィりリオなるフランスの哲学者が 今回の祭典の哲学者ディレクターのコンセプトに 大きな賛歌を歌っているビデオがかかる
素晴らしい賛歌である
ビエンナーレ企画段階でのコメントである
祭典を見てからの評価ではないが素晴らしいビエンナーレであると断言している
私もそう思う

エントランス横のフリースペースの作家の作品も素晴らしいが 作者が素晴らしいかは判断できない
然しそこに並ぶこのビデオは 京都ビエンナーレの全てであって 今回の作品展示はあっても無くても 或いは無い方が確実にコンセプトが提起されるように思う
座禅を京都でせよとポール・ヴィりイオが言っている

 

 

ポコテン

横浜トリエンナーレのHPを見ていたら 批評を募集しそれを公開していた
作品も批判もたっぷりの横浜を批評しコンペし表彰し反省もしていた。
京都も是非そうしてHPに公開もしていただきたい。
お上の自己満足でなく市民の啓発のために。
マスコミの反応も今ひとつのように思うのですが。

 

 

マイク

昨夜マイクは京都芸センで「詩の放課後」なるワークショップのお手伝いで私も詩を作り朗詠してきた
フォークの高田渡が好んで歌う沖縄の貧乏詩人「山之口獏」を題材に貧乏でも詩が書けるを今月のテーマとする上田仮名子の教室だ
当日のサブタイトルは景色を見るであった
高田渡の「銭がなけりゃ」をもじって スローネスをタイトルに唄ってみた
スローネスでなけりゃ」byマイク
眺めるだけの景色なら 貧乏人でも京都だよ ウン
銭がなければ君 詩だ 詩だよ京都の詩だよ 君
東山で腹一杯詩を吸い込んで 寝そべれば 雲の上
貧乏には たまらないのが嵐山 ウンそうだ
紅葉染みて心地よし 貧乏までも錦色 ウン本当だ
見るなら京都ビエンナーレ 銭がなけりゃネ 尚更だ
アートはうたのない詩なのに 貧乏だから詩が見える
銭があれば 嗅ぐわないが 貧乏だから美味そうな 美味そうな詩が書ける
美味しい美味しいスローネス 貧乏賛歌のスローネス

 

 

ポコテン

ポコテンポコテンは京都ビエンナーレ舞踏公演を見た。ブラジルで身体表現啓蒙活動したことで有名な日本人作家の遺作を引き継ぐ団員を招聘。それなりにコスモポリタン、受賞キャリアで歴史として知られている立派なものなのでしょう。
それにしても場末のビエンナーレの雰囲気、しかもスローネス ウイヅイン スローネス。
ぴったり京都的、京都も場末が似合っていると思った。

 

 

在家

昨夜NHKデジスタを見た。オーストリア・リンツ(人口19万)で96日から11日まで行われた、第24回アルス・エレクトロニカの放送があった。今回は明和電気土佐社長以下日本人が大活躍であったと言う。
それにしても25年前からメディアアートに目をつけた主催者は優れて崇拝されるべきでビックリ。
2700
点の応募と500人のアーティスト招聘も凄いが、関連野外コンサートなどに市民の15%、3万人が参加という。市民のアートへの認識の違いが思い知れる。開かれた展示と市民参加でも優れているからの高いレベルである。
一昨日のアルス・エレクトロニカに続き、昨夜はNHKの迷宮美術館でヴェネチア・ビエンナーレを見た。横浜トリエンナーレも妻有トリエンナーレもNHKで見た。京都もNHKで見るものだと信する。本物は見ないほうがよかったのかもしれない。

 

 

在家

このまま京都ビエンナーレが終わるのかと思うと残念に思う気持ちが段々してきて書き込みの元気がなくなる
この後はビエンナーレとしては珍しいが 流石京都らしいと言うか今様に伝統芸能を扱う試みが続く
これは何時も演劇舞踏芸能がそれなりに成功する様に上手くいくと思う
アートと違って 表現主意がハッキリしているからと 有料公演であり評価を伴う厳しいアートを何時もこなしているからではないかと思う
それに較べ今様アートは曖昧な作家と見るものとの関係の為 適当にこなされて適当に終わっている
曖昧さの中に 浄財が消費され ただの作品も しがない作家も タレントアーティストの如く世渡りしてゆくことを容易にしている
探しても見つからない 見つからなくても構わない 小さなブローチを京都タワー展望台の外側にただ一個取り付けて作品だとする
タレントもタレントだが そのタレントに条件もつけず ただ浄財の消費を仕事としてこなせばよいと言う世界的にも遅れた日本のパブリックアート事業システム
ディレクターやコーディネーターの無責任だけでは済まされない その前に市民の文化レベルの低さを改善しなければ如何しょうもないのです
そのための文化行政としてのビエンナーレ事業と言う立派な使命があるのです
市民の声を聴いてください その結果を教えてください

 

 

ポコテン

梅原猛が京都新聞に愚民主義の時代と題して、民主主義も独裁主義も愚民を利用して成り立った危険な歴史からなると書いていた。怖い話だが事実であり、その危険は愚民主義でしか救われないとも言う。尊敬する梅原猛は老体ながら愚民に理性を取り戻すべく命ある限り努力すると、これなくして将来無しと。頭下がる。哲学者としての使命感から自らアートにも幾つかの新作狂言で高尚に訴えておられる。
京都ビエンナーレの哲学者が愚民を無視しているとは思いたくはないが、愚民を利用したアーティストにしかスローネスを見出していないのか、彼らに迎合しておられる様子をよく見る。愚アーティストに理性を、それが哲学者の京都ビエンナーレの使命ではないか。

 

 

マイク

マイクは昨日その京都芸術センタービエンナーレ企画としての 京都タワーブローチ鑑賞ツアーのお手伝いをしてきました
お手伝いしながら凄く罪悪感に苛まれます
ツアー参加の市民にタワー入場料750円を鑑賞代金として使っていただきました
センターでは無料でですが ここは無料でなく 金のブローチ一個を探す為にです
探したら貰えるのではなく 探せなくとも支払うばかリなのです
そのツアーのナビゲーターは 京都市美の学芸員で25日から始まった「劉生と京都」を企画した立派な方です
美術を事業としての見方をされる優れてシリアスな毒舌家です
ツアーガイドしながら多分に疑問を感じておられる様子をその方を見てマイクは救われました
色々あっていいのですが やはり次のために ビエンナーレやアートが如何あるべきか 使命や責任や制約について ビエンナーレも京都も市民も アーティストも皆考えなければと思います

 

 

ポコテン

とうとう明日で終わりですね。
もやもやしながら今日は最後のシンポジュームを聴講しました。アートマネージャーは喰えるか。
面白いテーマだったが、スローネスの結論をそろそろ纏めねばならないのにこのシンポにはその気配はない。
やっぱりガッカリだったが、ただ救われたのは最後に若い女の方のビエンナーレの意味合いについての勇気ある質問があったことだ。何故このことが最後のテーマに取り上げられてないのかと。
然しその答えは司会のプログラムディレクターさえ私の知ったことではないと見得を切る始末。
寂しい結末であった。多分これ以上の進展はないでしょう。
コンテンポラリーダンスについても多くのディスカスがあったが、そのマネージャーの姿勢は行政やスポンサーにセレクトされたまでだと言い逃れしており、市民の要求や理解とは直接責任を負わない如く言い切る。
これがお公家育ちの京都だけのレベルなのか日本のレベルなのか、答えは大体分かりますが、最後にあった質問でギャラリーも経営しているプログラムディレクターが私はアーテイストのするままに任せるマネージャーだと言い切っていた。これこそアーティストもマネージャーも何時まで経っても後進国でしかない実態を示しているのだと思った。
このままでは人民のビジネスマインドもカルチャーマインドも何時までたっても経済も文化も後進国のままで立ち上がれないでしょう。

 

 

マイク

最後の締めくくりに一つ
ディレクターのコンセプトはビデオで見た通り ビリリオまで嵌ってしまったように 優れたビエンナーレである事を期待させるものであった
現実は厳しく ディレクターの甘さと 気の無い京都市行政と 何時ものようにアーティスト・コーディネーター・市民との遊離の結果であったように思う
スタッフの努力や成果は立派なものだっただけに 京都としてではなく センターとして評価を受ければもっと高く評価されたであろう
楽しんだ人は楽しんだと思うが それで良いと言うものではない
謙虚に評価した声を最後には聞かして欲しいものだ

 

 

 

 

 

新しいテーマ

 

どんどん作ります

 

 

当初のメッセージも 暫く置いておきます 

目次

ジャンプしません スクロールで姉害します

文化・芸術に思う

文化ボランティアをしながら サラリーマンの心の貧しさを感じてしまう

バイクも人も車も

平等なのです  何処の国でも 男女も然り モラルを失った日本は恥じ

商人道の復活を

石田梅岩の心学・三方よしの近江商人道を学ぶ  三河商人は今

 

テーマ

文化・芸術に思う

芸術と遊び

 

現代美術の意味するところ

 

 

‘02

3.16

「馬を水辺に連れていけても 水は飲ませられない。」

現代美術の作家の意図や心情やフィロソフィーをどう理解したらいいのだろうか。

馬が水を飲みたくなるような普遍性のある理解が得られるものが芸術家のクラシックアートである。

鑑賞者が水辺に自分を映して自分を発見すればいいと言うのが コンテンポラリーアートなのだ。後者は作家の自分の遊びであっても作品となる。

クラシックな人間は 人生にも芸術にも共生共感を求めて生きてきた。

コンテンポラリー人間は 作家の個性とは別の個性で 勝手に味わい楽しみ遊んで生きていく。

モラルの時代変化によるもので 良い悪いではなく 強く違いと変化を意識しなければならない。何故ならこれからの時代の変化の根源の原因であるからだ。

文化啓蒙

 

 

経済回復の原点

 

 

 

 

 

‘02

3.17

ヨーロッパではしょっちゅう ギャラリートークとかアーティストトークとか言うのがあって ミュージアムの企画説明が学芸員や作家からなされることがある。

美術であれ 博物であれ 動物園であれ 水族館であれ 物と箱だけでは 鑑賞者には不親切である。

家に飾っておく絵や 家で買うペットなら ゆっくり 生活の中で 時間を掛けて味わい楽しめばいいのだが ミュージアムでは 薀蓄をたれてくれると 或いは手助けが有ると無いとでは 楽しみ具合が大違いである。

それに較べるもないが 日本でもそれ位になると 一般市民も 映画や劇場のように ミュージアムを楽しむ習慣ができよう。

文化が育たなければ 産業も生まれず 段々ユニクロを着て田舎する そんな国に戻っていくように思う。

失った日本の文化と まだまだの後進国行政とが 立ち直る様な その兆しも見えないのではないか。経済回復なんかそのあとだと 皆が気付かねばならない。

経済的な文化破壊

 

 

 

 

 

‘02

3.25

ユニクロに見るばかりでなく 世界にマクド文化が蔓延している。消費者の欲求を満たすと言う建前を掲げ、大衆を餌にした低俗な経済が憚る。

本音は単なる利益追求の手段であり結果である。利益を美と信ずる経営で世界中が麻痺してしまっている。

売る側の資本家の理論で納入業者を食い物にし、グローバリズムも物つくりの文化を食い物にするための その手段でしかない。

文化は遺産である。今の経営は親や先人の遺産を食い物にする イージィーな パラサイトのモラルでしかない。なんと恥ずかしいことか。

文化破壊者に対して堂々と抵抗し、軽蔑するマインドが世界に浸透せねばならない。それには文化を理解し愛する人を増やすのが一番経済的で確実なことであろう。

 

 

テーマ

バイクも人も車も

道路は誰のものか

 

 

 

‘02.4.22

バイク(自転車)が平気で車道を走る。車もそれが当り前と思っている。こんなの日本だけだ。歩行者保護を笠に 車優先を押し通す経済志向の強制的モラル。

中国では男女平等が徹底している。道路もまた優先権付きの平等が徹底している。騒然として見えるが 共有のモラルは美しくもある。

日本人の失ったモラルは 勝ち取った経済の代償なのです。せめて道路だけでも また道路を通して モラル復活を思う若者の集まりにクリティカルマス(検索でサーチしてください)がある。バイクは車道を堂々と命を掛けてでも走ろう。爺さんの私はそう思って若者と走っている。

市民にやさしい!市バスの使命

 

 

 

20024.26

京都の市バスはひどい ジーゼルの黒鉛が汚いのもそうだが 新聞読者の欄をいつも賑わす定番となっている接客マナーもそうだ

車道を走るバイクを追い越しざまじわじわと左に寄せる しかもこの間は後ろから外部拡声器で 車道を走ったら危ないと怒鳴り続ける 

京都では学生までも歩道を走っている もっと車道を走る人が増えて 平等とモラル復権のアピールに 若者も命を掛けて協力してほしい

ヴェロタクシーと言う輪タクが近々京都市内を走る事になっている 3人乗り3輪だ

タンデムでも許可が下りないのに どう解決されたのか大変なご苦労であったと思う

実際は道路を走って車とのいざこざなど これからも大変だと思うが 使命感に燃えた若者を応援します

 

テーマ

商人道の復活を

石田梅岩

1685-1744

石田梅岩を知っている若者がいた。石門心学の祖。京都で丁稚しながら商人の倫理哲学を布教した。日本より米国でアカデミックに研究されているくらいだ。心を修め普遍的な「あるべかかり」たる性(事理)を知って身を処すべく事を説く。

商人道は持続可能な経済活動を通して 世間の生活や文化に貢献する事である。しかし戦後の利己主義と経済至上主義が 商人道を忘れ モラルや文化を失わせしめた。

利己主義や資本主義は それだけでは持続可能でないことを 欧米人は倫理として知っており 必ず弱者救済や文化や宗教で補っている。日本人はずるいだけだ。格好悪い。

梅岩を知っている若者がいた事は 復活の 正常化の 可能性を見つけたようで 自らも勉強し説得布教の責任を強く感じさせてくれた。

近江商人

天秤の里「五個荘町」をご存知か。自給農業の時代に地方から地方へ物流を作り上げて一儲けした商人富豪が多発の村。(是非一度行って下さい 素敵な観光地です)

富豪たちは家訓を作りその哲学によって歴代発展した。近江商人のそれを一言で云うと「三方よし」。つまり買い手によし 売り手によし そして世間によし。

今これを忘れている。世間のサラリーマン経営者は自らのために 自らの会社のためだけに 顧客第一だと看板して顧客を儲けの手段として 更に儲けようとしている。

京都のオーナー社長はそうではない。千枚漬け「西利」の社長は先代よりお客より仕入先を大事に考えろと教えられた。新鮮でいい野菜を安定して仕入れる事が お客に対してできる一番の奉仕であると。

三河商人

一兆円の利益を出して更に絞るのが三河商人道である。

唯それだけであれば バブルの前の頃に儲け過ぎだと叩かれた時期を思い出す。それもまだ皆が余裕のあるときに世間が騒いだ。下請けいじめだとか。

今はこの苦しい下請けたちもじっと耐えるだけだ。誰も騒がない。何故か。それはかって世間が騒いだときに 経営理念としての「社徳」を掲げ 儲けの理由がここにあることを表明したからである。そしてバブルの後も発展した。

つまり全部の下請けではないであろうがそれを含めた産業そのものの持続のためであり そのことで世間に貢献するのだという「社徳」が 今もトップの方針であると信じているからである。

現実は担当サラリーマンの成果のために 下請けを絞るだけに終わっている。商人道を知るのは 若者ばかりか中間管理者にも 既に三河にはいないのかもしれない。これでは一時的に三河の発展があっても持続的とは云えないし 世間のためにはならない。

今もう一度「三河商人道」を世間と一緒に考えなければならない。急いで。

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