諦める老人道 私の諦観道 諦観とは 本質を見極め 退いて達観することを言う マイク

    2011.4.25  古人のパワーに戻る トップページに戻る

 

これまでのページで 私の失敗をグラスノスチし 私の秘密をもあからさまにし 続いて私のリスク道なる人生観を語ってきた

この一連の語りの最後に 気が付いた大事な生き方 即ち失敗や秘密をチャレンジだと粋がるだけでなく 結構未練残る諦めを沢山してきた人生にも気が付いて それも人生に大事な弁えの道に加えるべきと悟った

 

諦めるしかない 或いはもっと積極的に先ず諦めるべきこともあります

諦めるべきことはどんな時のどんな事か どうしてそうすべきなのか

それをこれから 私の諦観道として振り返ってみようと思います

 

 

最初に言い訳するなら 勿論 ただ簡単に諦めるだけでは絶対だめだし 出来れば最後まで闘うことも大事に決まっています

諦めとてただただ諦めるばかりでは能が無いし しつこく粘って闘う時や 負け戦で終わる時であっても 最後まで闘う事を忘れてはいけない

つまり もう一つ 諦めばかりでない 闘う事も大事だとの人生観もあるのですが ここでは諦めに絞ることとし 引き続き 「闘う老人道なることを改めて考えてみることにします

 

 

さて 立ち向かうばかりではなく 隠れたり逃げたり諦めたりする老人の生き方も大切と分かってきた

秘密や隠れるのと似てはいるのですが 諦めるとは逃げるに近いのかもしれません

なんだか弱気な格好悪い生き方と思われるのが癪ですが その実 いいことも沢山あるのです

先ず一番は 本質に立ち帰ってみるチャンスになると言うことでしょうか

殆どのトラブルや問題は些細な 我欲に絡んだことのように思います

諦められないようなことに固執して 本質・原点を忘れることがよくあります

大切な大局的で客観的な判断のために 離れてみる つまり固執を断ち切ることも有意義なのです

 

本人にとってもそうですが 外から見て 相手がどういう状況にあるかを判断するべき時があります

拘りのきつい人を相手に闘うことの労力や無駄を思うと 一時的にでも逃げた方がよい時もある筈です

そのようなときはこちらが先に諦めて無視した方がよいのであって また諦めの悪い人との闘い方はそれなりにあると思います

それが卑怯だとか 格好悪いとかは言えるでしょうか

 

 

震災原発被災者の方々のことを考えていると あの方々は原発で僻地の経済補償を目当てにしてきたのだから リスク覚悟はできている筈だし 反省すべきでもあり 自己責任ではないかと思ってしまいます

彼らがその点を理解しているようには全く示すこともなく 東電や政府にふんぞり返って補償を求めているのを見ると とても許せないとも思う

先ず自分の不運を 天災であり また人災の方割れとしての天罰でもあると諦め そして反省懺悔することなくして賠償請求できない筈です

不運を天災と諦め また自分の無知から来た天罰だとは簡単に認められないのは理解できるが まず謙虚になり反省するためには 諦めが必要なのです

 

しかしよく考えると 僻地の原発は都会人の押し付けで作られたもので その点を都会人は見て見ぬふりをしたり 義援金などで他人事のように済ませておけるものではない国民全体に共同体の責任があるのです

 

 

当事者は諦めるしかない 諦めこそ解決を早めるのです

諦観すると言う事は 物事の本質を見極め 我欲を離れ 超然とすることなのです

お互いにそうなってから相互理解と相互支援が始まるのです

私利私欲を通し 諦めることを忘れた文化に日本はなってしまっています

今更 諦観道などと誰かが言っているように聞こえます

これくらいで止めておきましょう

 

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諦めには未練が残ります

一入未練の多いマイクです 未練がましいマイクとも自覚しています

この未練にも 人生の大きな意味があることを 「私の未練道」として 近々述べることにしています

人が死ねないのは 未練があって死ねないのだとは思います

未練の立ち方を「私の自死道」で研究しましたが そう簡単ではありません

簡単でないから良かったのかも知れませんが 簡単な方法があるかも知れません

そうなると大変なことが起こります

未練については別途お話ししたいと思います

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