京都に平井金三あり

    知る人ぞ知るでは済ませたくない!  大拙と較べて何故・・・・?      2012.1.26

                               古人のパワーのページに戻る トップページに戻る

 幼名 鱗三郎 平井金三(きんざ)(18591025)安政6

 

石田梅岩を知らない京都人が多いことには嘆かれるが 明治中期に 仏教と日本文化を欧米に知らしめた平井金三を知る者は これまた殆どいないようです

 

恥ずかしながらマイクもその類だったのですが 最近 心学修正の講演会(2011.1.21)で詳しく知るところとなって 考えてみることの必要性を強く感じました

そこで少しばかり調べてみましたので マイクの知ったこと 思うところを記してみます

 

講演会は 「京都が生んだ国際人、平井金三」と題して 舞鶴高専准教授 吉永進一(1980京大理卒 文学部宗教博士課程卒 日本宗教学会理事 ブログ)が 平井金三を熱く語られた

その内容は 講演会資料や 氏の研究報告に詳しいのですが 取り敢えず簡単な紹介をサイトから集めてみます

 

吉永さんは 高専のHPで その研究を次のように語っておられます

ここ十年ほどは近代仏教史、中でも明治時代の英学者、平井金三(きんざ)の研究に取り組んでいました。平井は京都の人で、同志社に対抗して仏教者向けの英語学校を開き、アメリカへ渡って仏教の布教を行い、その頃シカゴで開かれた世界宗教会議で演説して大反響を呼んでいます。すべての宗教の共通性を主張して、総合宗教論を唱えたり、心霊研究をしたり、時代に先駆けていた人で、あまりに進みすぎていた人といえるでしょうか。アメリカで活躍した日本の仏教者としては最初の人物なので、再評価されるべき人物だと思います。

 

アメリカでの活動は サイトではまだ確認していないので 吉永さんの講演資料を紹介したいのですが別途にします

本当は何よりもこのことが マイクにこのページ作成の機会を与えて頂いたのですが・・・

 

Wikipediaには 金三の項目はない

SPYSEEのプロフィール検索に 吉永さんの平井金三の近代 コロンブスが待っていたからの引用がある

平井金三の人物 平井金三という名前は何度もこのサイトでは書いているが、さて改めて紹介するとなると、なかなか難しい。そもそも平井について触れている本は多くない。というか、とても少ない。その数少ない一冊が常光浩然『日本佛教渡米史』(佛教出版局、1964)である。 それによると、平井は最初の仏教の米国伝道者、一種の政治運動家、社会教育家、言語学者、居士、僧、自由主義者、ユニテリアンとある(同書、368頁)。とりあえず明治の英学者、教育家というところが、最も通用しやすい肩書きだろうか。 一八五九年に京都に生まれる。父義直(春江)は儒学者で書家であり、母は山科西宗寺の娘である。京都欧学舎でドイツ語、京都英学校で英語を学ぶ。得意の英語を生かし、翻訳官として出仕したこともある。明治十八年には京都に英学塾オリエンタルホールを開校している。明治二四年、臨済宗妙心寺管長今川貞山に得度を受け、法名を龍華とする。明治二五年三月、条約改正の実現、日本への偏見の是正を目指して渡米。明治二六年にシカゴの万国宗教大会に出席し、明治二七年六月、父の病気の報に接して帰国。その後、明治三一年にはオリエンタルホールを閉じ、ユニテリアン協会の活動に参加するために上京(同書、369373頁)。 以上が平井の前半生である。この間、明治22年には、野口善四郎(復堂)と共に神智学協会会長オルコットを招聘し、明治23年にはオリエンタルホールより仏教月刊誌『活論』を発行している。さらに仏教各宗派合同の仏教大学建設運動も開始したが、これは実らずに終わっている。もしこれが成就していれば、哲学館に匹敵する大学が京都に出現し、平井は大学人として生涯を終えたかもしれない。あるいは大内青巒、井上円了、中西牛郎、堀内静宇、加藤咄堂、鈴木大拙など、当時は仏教運動家が続けて出現したが、その列に数えることもできよう。ただ、アメリカから帰国の後はユニテリアンに方向転換し仏教からは一歩距離をおくようになったので、仏教者として名を残すこともなかった。 常光は、弟子の証言として、平野威馬雄*の言葉を引いている。それによると、身の丈は五尺二、三寸くらい、やや猫背で、体重は一二貫から一五貫くらい。本郷西片町に家があった。米国人も恥ずかしがるほどの立派な英語**であった。先生は平生ニコヤカで口のきき方も静かであったが、絶対に妥協しない人で、反官僚で徹底的民主主義、自由主義者であった、外柔内剛というのは、先生のためにできた言葉であろう。そのためによく失業して不遇の時代が多かった。先生は僧籍にあったが、いわゆる坊主くさくない坊さんであったという(同書、374375頁)。

 

「大アジア思想活劇〜仏教が結んだ、もうひとつの近代史〜」佐藤 哲朗 サンガ の著作に関するHPがある

そのHPの 大アジア思想家列伝一 平井金三 との前章には 吉永さんの協力で書かれたと見える詳しい解説がある

 

宗教会議を別視点から見た新しい研究が 国社文研紀綱第13号(2011)「シカゴ万国宗教会議と明治初期の日本仏教界一島地黙雷と八淵播龍の動向をとおして一」 にあります

 

これらをまだ詳しく読み切っていないのですが 直感的に マイクには気になることがある

アメリカで活躍した日本の仏教者としては 金三が最初の人物ならば 梅原猛が「近代日本最大の仏教者」と評した鈴木大拙であっても 何故か余りにも大拙だけが目立ち過ぎていることに違和感を感ずる

「鈴木大拙 没後40年」松ヶ岡文庫 河出書房新社

講演会の後で 吉永さんにそのことを直接質問したのですが 余り気にされておられない様で 納得できなかった

マイクには 大拙に先駆けた金三のことを 大拙自身が如何捉えていたのか それが気になってしょうがない

マイクは金沢生まれで 大拙を誇りにしているので 大拙の先輩格の金三に対する謙虚な気持ちを確かめたいと思った

昨秋開館した鈴木大拙館でもこのことを調べようとしたが出来なかった

 

そこで 大拙に関する著書を幾つか眺めても それらしきことは見つからない

釈宗演については 子弟としての繋がりと 宗教会議草稿の英訳をした繋がりが述べられ 宗演の推挙で外遊の機会を得たとあるが 金三のことは全く書かれていない

直接の繋がりはないにしても 金三のアメリカでの活動が 誰よりも先行し 多大な影響を与えた事実を知らない筈がない

どのように意識していたのかと言うより 意識を避けていたのではないかと思えるくらいです

 

一方 釈宗園はどうなのかを調べてみても 平井金三との繋がりを述べるものはないようです

 

Wikipediaの宗演には 宗演は福沢諭吉のバックアップで 宗教会議に行ったとある

松岡山東慶寺のHPの釈宗演のページには 日本仏教代表4人の団長として出席し 『仏教伝通概論』のスピーチをしたが その英文は当時参禅の居士大拙鈴木貞太郎が作製したとある

分かり易い年譜は 釈宗演紹介のHPにあります

SPYSEEのプロフィール検索では 釈宗演は大拙と繋がっているが 金三は登録自体もない

 

「釈宗演伝 井上 禅定 禅文化研究所 をHPで見る

目次には 次の項目がある

本文に金三があるか確認したいが 目次からは見えない

 

鈴木貞太郎の英訳
渡米・万国宗教大会 三十五歳(明治二十六年)
万国宗教大会
ケーラス家訪問
宗教大会閉会
「仏教伝通概論」
シカゴより帰国

 

宗演についてもう一つ セイロン留学3年の記録が 次の本にあるが シカゴの前のことである

新訳・釈 宗演『西遊日記』井上 禅定 大法輪閣

 

釈宗演と平井金三が述べてあるサイトは エディション・シナプスの「万国宗教会議の全記録」にあった

仏教界から釈宗演(臨済宗円覚寺派管長)土宜法竜(真言宗高野山派)芦津実全(天台宗)八淵蟠竜(浄土真宗本願寺派)と英学者・平井金三、神道を代表して柴田禮一(実行教管長)、日本のキリスト教会から小崎弘道・・・

これを契機とした日本からの海外への仏教布教の期待も大きく、実際釈宗演や土宜法竜の講演そして平井金三のキリスト教批判は大きな反響を呼んだようです。また、この会議の釈宗演の演説草稿を英訳した鈴木大拙は、その後海外へ大きく活動の場を移してゆきます。」とあるが 宗演と大拙との繋がりを述べるものの 宗演と金三の関係を積極的に述べてはいない

 

ついでですが 上記の記述を正確にすると 仏教会から派遣されたのは4人で 金三は含まれていない

金三は 万国宗教会議の前年に既にアメリカに渡り 宗教活動をしている

帰国も会議の翌年の 自由宗教会議に出てからです

仏教会から派遣された4人に比べて 英文を英学と唱える塾(オリエンタル・ホール)を8年前に開設した金三は 流暢に英語をこなして 既に目覚ましい活動をしていた

 

金三の会議での演説内容は 吉永さんからの講演で知った

その幅の広さ 本質性に感心したばかりでなく ストレートにキリスト教やアメリカ批判をして 逆にアメリカ人に受けた事は 想像出来るし 他の4人が為し得たこととは格段の違いがありそうです

 

それ程の人を 宗演や大拙がその後の活動に影響を受けていない筈がないのではとの思いが マイクにはあって このページを立ち上げました

吉永さんは 金三のアメリカでの活躍を研究され 金三を再評価すべきと信じられています

それなら尚 宗演や大拙と比較して 世界への仏教理解を広めた効用と実績を 訴えなければなりません

マイクには 如何しても大拙の為に霞んでしまったのではないか 宗演や大拙が 金三に対しての 何かは分かりませんが 何かあったのではと思いたくなります

 

勿論 金三自身が その後 ユニテリアン活動などに走ったことがそうさせたのかもしれませんが 仏教界そのものの影響が金三をそうさせたのではないか

マイクにはこれ以上のことを調べる伝手も能力も余裕もありませんが 気になるのです

 

話しはこれ以上進められませんので 余談をしてみます

鈴木大拙について 梅原猛は 『美と宗教の発見』ちくま学芸文庫 で 鈴木大拙・和辻哲郎と先人の考えを「(明治期の)宗教的痴呆」と切り捨てた返す刀で 丸山眞男まで批判している

豹変することで知られる梅原猛は『梅原猛 日本仏教をゆく』朝日新聞社 では「二十世紀日本に出現した二人の菩薩」と題し「鈴木大拙・宮沢賢治」を最上級で賛美

 

日本的な道徳や倫理の美しさを切々と説く内村鑑三は 著書『代表的日本人』の中で 西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ その生涯を叙述する

万国宗教会議の翌年で 日清戦争の始まった1894年に書かれたこの本は 岡倉天心『茶の本』1906年や 新渡戸稲造『武士道』1900年 と共に 日本人が英語で日本の文化・思想を西欧社会に紹介した代表的な著作であるとされている

 

彼らの生まれは

福沢諭吉 1834 宗演を会議に推挙した

釈宗演 1859

平井金座 1859 宗演と同じ歳

鈴木大拙 1870 11歳上の宗演に 4年後渡米を推挙される

 

内村鑑三 1861

岡倉天心 1863

新渡戸稲造 1861

 

帝国日本の勢いに乗って この頃の若者が世界に羽ばたこうとしていた

その走りが金三でありながら 何故か薄れていった

 

マイクのこのような思いがこのページを立ち上げさせたのですが これ以上は無理ですので 吉永さんにご意見をお教えいただこうと思います

 

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講演会に刺激されてこのページを立ち上げた後 吉永さんのブログに マイクの思いをこのページから読み取って頂きたく また金三が何故大拙の影に隠れてしまっているのかをコメント欄で質問しました

 

2012.1.26 のマイクのコメント(質問)

21日に 京都修正舎の講演を拝聴しました者です
大変有意義なお話をお聞きして 興奮しています
金三と大拙の繋がりを気にして サイトで調べてみましたが 確かなことは分かりません
思うところをHPにしました
ご意見お教え頂ければ幸甚です
http://mike12.web.fc2.com/kinza.htm
または 「マイクスタンディング」のHPの「平井金三再評価」のページにあります

 

2012.2.27 上記の翌日 コメントにて返信頂きました

平井についてまとめていただき、どうもありがとうございます。平井金三と大拙の関係は、話が長くなるかと思いますので、こちらのブログに書いてみたいと思います。少しお待ちください。

 

 

2012.2.5 『平井金三と鈴木大拙』 と題して 御回答頂きましたので 敬意をこめて転記します

2012-02-05 平井金三と鈴木大拙

 以下はマイクスタンディングさんのご質問に答えての小論です。ただ、質問の意図を超えてしまったようで、いささか申し訳ないです。

 鈴木大拙貞太郎と平井龍華金三という二人は、確かによく似た立場にある。どちらも英語が堪能で禅をアメリカに紹介した国際的な仏教者であり、いずれも臨済宗に関係している。平井は名目的には出家しているが、実質は鈴木と同じ居士仏教者で、教師として前者は英語と時に倫理を教え、後者は英語と宗教学を講じた。伝統的な教えを墨守したというよりは、新しい解釈を施した仏教者である。平井にはチェニイ夫人、鈴木にはビアトリスという、仏教や日本に関心を持つアメリカ人女性との縁があった。平井は、鈴木が渡米(1897年)する5年前に渡米し、1893年には鈴木の師匠であった釈宗演と共にシカゴの万国宗教会議に参加し、後に鈴木の雇い主となるポール・ケーラスと知り合っている。

 このように比較してみれば、平井と鈴木が歴史のどこかで関係を持っている(あるいは後輩である鈴木が平井に影響を受ける)ことがあっても不思議ではないように思われるのだが、実際はそう簡単な話でもない。

 渡米前の鈴木は、禅についての記事や『新宗教論』を発表してはいるが、帝大選科を退学し、釈宗演の書生というところで、仏教青年たちの間には知られていたものの、まだ駆け出しであった。禅仏教で一般にも文名が知られるのは意外に遅く、単行本では1914年に出版した単行本『禅の第一義』からだろう。それ以前の訳書、著書を並べてみると、ケーラスとスウェーデンボルグの訳書が大半を占めている。

 訳書:ケーラス『仏陀の福音』、同『因果の小車』、同『阿弥陀仏』、スウェーデンボルグ『天界と地獄』、同『新エルサレムとその教説』、同『神智と神愛』

 著書:『新宗教論』、『静坐のすすめ』、『スエデンボルグ』、『禅の第一義』

 平井は1916年に亡くなっているので、「禅仏教専門家」ではなく、禅とケーラスとスウェーデンボルグの紹介者として鈴木を知っていたであろう。平井も明治20年代にすでにスウェーデンボルグを知り興味を持っていたので、鈴木の方向性と平井のそれがかなり近いことは間違いない。

 それでは平井と鈴木はお互いを直接知っていたかどうか。鈴木は、もちろん釈宗演からその名前を聞いていたであろう。平井の方は仏教雑誌を通じて鈴木の名前を知っていた可能性はある。若手仏教青年たちが集まって1899年に佛教清徒同志会が発足し、在米中の鈴木もこの団体の同人となっている。後に新佛教徒同志会と改名するが、この団体には平井の教え子(加藤咄堂)も入っている。平井と鈴木は直接の面識はなかったかもしれないが、その周りの人脈が重なりあっているので、間接的にはお互いを知っていたであろう。さらに大正時代に入ると、平井の主宰していた居士禅の会、三摩地会に鈴木の妻ビアトリスが出席しているので、どこかで出会っていたかもしれない。

 しかし、鈴木が平井について書いている文章は多くない。しかもかなり冷淡である。新版の全集でも実質的には2箇所で、ひとつは1933年の『現代仏教』に掲載された「釈宗演師を語る」という記事である

 「その頃平井金三と云ふ人がシカゴ市に居て、大会では仏教のために大雄弁を振ったと聞いて居る。何でも英語に堪能であった」(全集32巻、36頁)が、その会議後、平井と釈宗演が訪れたヘグラー家では「言葉の上よりも、人格の上で一段の威圧を感ぜしめたのは、宗演師」(同、37頁)と書いている。平井は英語の名人にすぎないという評価であり、平井自身も得度した仏教者であったという部分は、鈴木の記憶からまったくカットされている。鈴木は平井の活躍を知っていたはずであり、「何でも英語に堪能であった」とは、師の釈宗演を持ち上げるためとはいえ、いささか素っ気無い書き方であろう

 さらに1962年『仏教タイムズ』に載った「不思議な因縁」というインタビュー記事では、(日本僧侶は)「どうも外国語は下手であったので平井金蔵氏や、野村洋三氏がその間に運動して、演説というか、まあ仏教のことを書いた紙を読んだという程度で、私などがその紙をつくるのに、いくらか力を注いだという程度」(全集33巻、248頁)と述べている。これは最晩年、しかもインタビューなので、記憶間違いがあっても不思議はないが、平井の名前も間違っており、演説も忘れ去られている。

 鈴木だけの責任というわけでもないが、平井の名前が仏教史から消えた原因のいくばくかは、鈴木によってシカゴ宗教会議が語り直されたことにもある

 そもそも平井のシカゴ宗教会議での演説の成功は、その当時から日本ではあまり知られていなかった。同時代の仏教誌が報じたのは各宗の僧侶たちの活躍が中心であった(なお、釈宗演、土宜法竜、芦津実全、八淵蟠竜の僧侶たちは宗門が代表者として派遣したわけではなく、各僧侶が募金をつのり個人として参加している)。彼の活躍を伝えたのは『仏教』『伝灯』、大原嘉吉の邦訳した万国宗教会議演説集、八淵蟠竜『宗教大会報道』などに過ぎなかった。つまり、1893年の万国宗教会議当時、平井の快挙を日本に伝えることができたのは、4名の僧侶関係者でなければ、古河老川、松山緑陰、大原嘉吉などの英語が読める若手仏教論者たちであった。後者は若くして亡くなるか、あるいは仏教運動を離脱していった。一方、僧侶たちの没年を見ると、芦津実全が1921年、釈宗演が1919年、平井と親しかったと思われる土宜法竜は1923年、詳しく平井の活躍を伝えた八淵蟠竜が1926年である。1933年時点では、英語原稿の作成に携わった「当事者」として発言できたのは、鈴木大拙ぐらいしかいなかった。そうなると、鈴木の言説自体が、平井金三の名前が近代仏教史の中で消えてしまった理由とも関係しあっているとも思われる。

 それではなぜ鈴木が平井の存在を重視していなかったのか。これはいくつもの理由が考えられる。人間関係機微といった立証しにくい論点を除けば、ここでは次の2点を仮説として述べておきたい。

 ひとつは、鈴木大拙と平井金三の世代の差である。仏教運動、とりわけ知識人たちのそれは、第1世代が井上円了とすれば、第2世代は鈴木大拙のような1870年前後に生まれた若者を中心として、明治30年代に起こった精神主義、新仏教の運動であるが、その間に1.5世代というべき人物がいる。ひとりが中西牛郎であり、もうひとりが平井金三であろう。円了の提示した理論的な仏教改革プログラムをさらに進めて、実践的な方向で宗門改革論を唱えたのが中西であり、オルコット招聘や仏教大学設置など行動で仏教改革を実践しようとしたのが平井である。二人はいずれも仏教改革運動がうまくいかず、よりユニテリアンへと移行していった(中西はその後、旧仏教擁護に走り、最後は天理教の近代化に貢献し、平井はユニテリアンから道会へ移行し、最後は三摩地会を始める)。「仏教」という名称にこだわらず、宗教の遍歴を重ねていったといえよう。それに比べれば、第2世代の方は「仏教」という立場にとどまりつつ、境野黄洋をはじめとする経緯会(仏教清徒同志会の母体)のように宗門の外から、あるいは清澤満之のように内から批判や改革を行うか、あるいは精神主義や『新仏教』のように仏教という名称の中身を近代化していった。このように大雑把に括ることはできよう。

 第2世代は、井上円了、村上専精、島地黙雷三宅雪嶺といったところを先輩として尊敬していたが、中西や平井についてはそうではなかった。神智学とオルコットの影響もそうであるが、第2世代以降の知識人仏教者(あるいは仏教研究者)が明治仏教史を回顧する際に中西、平井、神智学といった「外部」の影響については軽視する傾向がある。国民国家を完成させようとしていた時代には、「純粋ならざる日本人性」と見えるものは排除されるものである。しかし、実際はもっとシンクレティックであり、折衷的でダイナミックな思想運動が水面下で展開していた。仏教遺産はキリスト教宗教)へ批判性をもつ哲学と結びつき、一方で京都学派を生み出したことや、あるいは鈴木大拙におけるスウェーデンボルグ主義などはその好例だろう。

そう考えた場合、平井金三の「総合宗教論」は、その後に展開するであろう水面下の思想の動きを予見し、意識的に表出したものである。平井はシカゴ宗教大会の発表で、前近代における折衷宗教思想(聖徳太子空海から心学まで)を、日本宗教の「伝統」とアメリカの聴衆に向かって自賛すると同時に、そのような折衷思想を蘇らせた(具体的には道会の宗教思想に大きな影響を残した)。ただ、積極的にシンクレティズムを用いよという主張を、仏教という名辞、宗教の歴史性にこだわる第2世代がどう考えたか(ここで、姉崎正治井上哲次郎の国民宗教論への批判も思い起こされよう)。ユニテリアンへの「変節」については、進歩的な仏教青年たちはそう違和感を抱かなかったと思われるが、そうした「表面化された宗教の折衷性」については敬遠されたのではないか。

 もう一点は、平井と鈴木の禅解釈の差である。まず、二人とも一元論宇宙論を前提としているのは間違いない。平井の場合は、「真如の海」であるとか、分子レベルの意識が遍在すると考えていた(W・ジェイムズの論敵であったクリフォードの一元論と類似している)。汎心的宇宙といってもいい。その上で、平井は禅定を心理状態と解している。ただし宇宙それ自体が大きな心であるので、機械論的生理学を前提とする心理的還元論とはかなり異なる。最後の著作となった『三摩地』では、禅も他の瞑想技法の中で相対化され、あるいは道具として理解されている。

 鈴木の場合は、禅を神秘主義と同一視することを否定するところから出発している(私と神、心と対象の二つにすでに分かれているからという)。彼の汎神論的宇宙はOutlines of Mahayana Buddhismで語られている(「本来の仏教ではないが、なぜか日本人にはなじみがいい」という批評を訳者の佐々木先生が下されている)。禅とはテーブルをガタガタさせるようなもの、という上田先生がよく引用される挿話で知られるように、鈴木の禅論では瞑想作法が問題ではなく、一瞬の気づき、宇宙の見方の深まりが重視される。スウェーデンボルグの鈴木による解釈では、この世界がそのままにして天国であるとされる。

 比べてみれば、平井の宇宙論物理学宇宙論を多少拡張したものである。霊的現象も、新たな物理学心理学によって説明できるとされるし、心の鏡を磨けば万人が透視能力を発揮できるという。鈴木の場合は、一元的世界観と二元的世界観をどうにか統一しようとしていたとも思われるが、その場合は超常的現象の有無はもとより問題にはならない。平井は心学的な知恵の上に禅を置き、鈴木はスウェーデンボルグなどを借りながら禅を拡張していった。いずれも俗世の生活にとっての禅経験の重要性を理論化しようとしたが、平井は自然神秘主義(あるいはオカルト主義)的な方向、鈴木は神秘思想的な方向でそれを考えようとしていたといえるのではなかろうか。

 もちろん鈴木の哲学的、思索的な禅理解は、それだけで終わらずに、人生や人情のニュアンスに富んでいたからこそ、いまだに広く読まれているのであるが、ただ、彼の禅論が主流になってしまったことで、禅を絶対視する傾向が主流となり、瞑想法として道具的に考える立場の影が薄くなってしまったように思われる瞑想法としての禅という心理主義的な禅論は、原坦山、田岡嶺雲、平井金三と、途絶えそうになりながらも仏教近代化の背後で隠れて続いた系譜である。そうした流れを、仏教外の静坐法などとも関連づけてみることも可能ではないかと思う。

 いや、平井金三と鈴木大拙の比較から、話はとんだところまでいってしまった。平井と鈴木の関係は?とたずねられて、簡単に答えようと思っていたが、考え始めたら収拾がつかなくなってしまった。途中、議論がおかしなところもあるが、いずれまた考えてみたい。ともかく、質問者の意図を超えてしまったのではないかと危惧する。質問されたマイクスタンディングさまには、お詫び申し上げるとともに、考える機会を与えていただいたことを感謝します。

 

詳細丁寧な学者の論文として 上記のように御回答いただきました

2012.2.6 翌日簡単ですがマイクはお礼のコメントをしました

金沢生まれの私は大拙を誇りに思っていたのですが 講演会で 京都に先駆者平井金三ありし と知って 何故金三が表に出てこないのかが気になって「金三再評価」のページを立ち上げ そして質問をさせて頂きました
今回の先生の勿体なくも また流石の研究者と感心させられる詳しい論文を読んで 状況を深く理解できました
金三の立場と 行動の所為で 認知され難かったかも知れませんが 釈宗演との関係や 大拙自身が冷淡にした理由も勘ぐられます
真実はともあれ 金三の卓越した米国での言動の事実の研究と顕彰に励まれんことを大いに期待します
有難うございました

 

マイクにはこれ以上の論議をする能力もありませんので ここに吉永さんの論文のご発展と 更なる研究によって金三が顕彰されることを願って 一先ず閉めます

 

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