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       「読後感ブログ」のカテゴリー「老人の責務」だけを 時系列に並び替えました(2014.2.6 まで)

 

                            マイクのオリジナル『私の自死道を語るページがあります

     ブログをカテゴリー別に自死本 読後感 終活本紹介」 楽しい死 のページに纏めています

 

 

私マイクは今73歳

この儘だらだらと生きているよりも 「楽しい死に方」があると分かれば それが一度限りで命果てる死に方と分かっていても それでもそれを選ぶかも知れない

とは言っても今まだマイクにはそのようなものがあると云う確信はありませんし 喩え一つでもそれらしい仕方を見付けたとしても 元気な内はそれを選択実行する勇気などそう簡単ではありません

それでも誰でも自分が終末期と判断できる状態になれば 但し痴呆になっていなかったら 生きている価値よりこちらを選ぶかもしれません

 

自分がどのような状態であるかによって大きく影響されるし 誰でもそうするとは言い切れませんが それを考え探し準備しておくことくらいはしておきたいと思っています

そんなことをしても無責任かも知れませんし 果たして役に立つか今まだ分かりませんが マイクは真剣に1年半も考えてきました

 

元々は 6年前に須原本を読んだことから始まり マイク自身の終末期の死のあり方を考えるようになり 「読後感ブログ」を始めました(2008.3.30から)

 

マイクの読後感ブログは 須原本の読後感を終えた後 マイク自身の死に方を考えるために 新しいカテゴリー「終活本紹介」として(2010.4.10から)多くを読みそれを書き込み マイクのHPにも「終活本を紹介し纏めています

その後 マイクだけのことでは済まされないことを知ってカテゴリー「楽しい死とは」に (2012.7.19から)書き込みを続けながら 『楽しい死』の意義と方法を探し求めてマイクのHPにも「楽しい死を求めてのページに纏めてもいます

 

「楽しい死」を考えるについて 無責任な思いや実践行動にならないかとの危惧を常に持つようになり 老人の責任と義務と言うことを頭にして考えることにしてきました

それを「読後感ブログ」のカテゴリー「老人の責務」として「楽しい死」と並列に考えながら書き込み続けています

今回それを「老人の責務」として このカテゴリーだけを時系列に纏めてみます

拾い読みしながら マイクの思いの変遷を読み取ってください

 

 

 

「読後感ブログ」の2013/2/15「老人の責務」から始まりましたので もう一年になります

読み返しながらここに転記し 簡単なメモカラーリングを加えながら振り返ってみます

 

 

2013/2/15「老人の責務」スウェーデンでは障害者や老人などの弱者にも社会的責任を自覚することを問うているのです

「老人の責務」という記事カテゴリーを新設して これまでの「楽しい死」とは違った老人のあり方を考えてみようと思います
何故こんなことを考えなければならないと思ったかと言うと 直接的には先日図書館で スウェーデンにおける障害者自立を書いた雑誌「正論」の記事を見たからです
障害者や老人などの弱者にも社会的責任を自覚することを問うているのです
そしてマイクの思いも 日頃よりHPの彼方此方に度々語るように 原点がそこにあるからなのです

西欧には弱者といえども自立を基本とする福祉に対する思想があり 障害者と雖も 勤労の権利があり 自立を支援する施策がある
弱者救済措置思想からなる日本では 憲法も労働の権利と責任を唱えているが 老人や障害者に対しては支援法などがようやく出来てきたとは言え自立思想が社会的に容認されているとは言い難い

定年で退職した年金老人がブラブラしていても社会的に敬老されながら 暇を弄んでいるのをいつも巷にいっぱい見る
マイクは 違和感を感じてどうしようもないが マイクも同じ年金風来坊で 結果的に遊んでいるだけなのです
個人の思いではどうしようもないくらい社会的に当たり前な風習風俗になってしまっているのです

現役とは 現に役に立っている人です
年金生活者は何の役に立っているのでしょうか
暇潰しの生き方なら 唯の穀潰しなのです
老人とて勤労の権利と責任があるにもかかわらず 誰もそれを咎めない

まだまだこのような程度のお話にしておきますが ボチボチと真剣に考えなければ 「楽しい死」を語る資格はありません

2013/2/21「老人のいい加減さに・・」

末期老人の有り様を考えないまま死を迎えることなど考えられないマイクは 終活本を読み漁りましたが それは殆どが楽しく生きれば後悔しないと説くばかりです
マイクは終末こそやり遂げられる大事なチャンスとの思いを確かめようと それが「楽しい死」ではないかと探してきました
しかし倫理的・社会的に制約されるであろう現実を考えると そういう抵抗に耐えられるだけの思想や理念を構築しておかないと太刀打ちできないでしょう
しかしそれも マイクサイドの思いを幾ら述べても それは一方的な偏見と看做されるだけです

従って先ずは 現状の一般的な老人感に対するマイクが日頃感ずる違和感を 不快感として示すことから 詰まり 老人に対する社会的見方の異常について現状批判することが大事ではないかと思い 「老人の責務」なるカテゴリーを立ち上げました

しかし老人問題を福祉という理念から考えようとしても マイクが十分理解していない段階なのでなかなか筆が進みません
何となく思っていることは 死についてと同じように 日本人は老人のあり方についてもあまり考えていないようだと言うことです

簡単に言えば 日本の老人は無責任に遊んでいるだけではないでしょうか
定年後の自己中な社会性の欠如が気になってしようがありません

今まだこの程度ですので このテーマを進めるのは少し紆余曲折しそうですし ボチボチでしか進みそうもありません
リタイアで遊び三昧へ

 

2013/3/2「老人天国でいいのか」

マイクのランニングのHPと このブログに共感いただいているluneさんのブログに今ほどコメントしました

lune
さんの「楽しい死」がもう9件になりましたが マイクは3月の公演3回と4月神戸公演の稽古が重なり 少々疲れていて 思考が止まっています
この度のお父さんの死には心身お疲れのことと察します
まだまだお若い内には死を自分のこととは考えられないと思いますし まして社会的な問題だと実感するのは急がなくともいいのかも知れません
しかしマイクの歳になりますと 大学同期24人のうち8人がもういないし 痴呆の友人もいます
それより何よりも日本の年寄り自身が死を考えていないことに哲学のない生き方を見てしまいます
自分の死に無頓着と言うより 死に無責任であるばかりでなく 生き方にも無責任であるように思ってしまい 「老人の責務」のカテゴリーを始めました


老人の自死こそ仏教的哲学的そして倫理的であるかも知れないのではと思うマイクです
そして宗教者哲学者倫理学者でなくとも 自死を人生の最後の可能性と考えておくことだけでも老人の責務であり そう思っていないような社会こそ不自然なのではないかと思います
定年後に遊び呆けるマイク自身に虚しさを感じますが 社会的にもこんな老人天国は日本ばかりである異常を マイクは告発したいのです
1月22日に書き込んだ「麻生の本音発言:さっさと死ねるように・・・」を批判する人にはまだ巡り合っていません
皆 麻生に共感しているのに 考えたり見つめたり発言したりしようとしていないだけなのです

ただ 老人誰でも生きる権利がない訳ではない
老人としての責務を果たせる人は生きる権利があるに決まっています
その責務とは何か
それをこれから考えてみたい
遊び呆けているだけでは生きている必要条件も必須条件も満たしていないということだけは言えると思います

 

2013/3/4「いい加減では困ると思います」

「吉本隆明が最後に遺した三十万字」吉本隆明 ロッキングオン (2012/12)

この本で 老いのありようを晩年の吉本が語っている
病苦を負って自死した評論家江藤淳を語るなかで 自らの闘病をこう語る
自分にも「こんなんで生きているって意味はないんじゃないか?」と自問自答したと言う
それでも自死を考えなかったのは 江藤と違って自分は「いい加減だから」と笑って答えている

妻の死や病気を苦にして自殺した江藤の遺書には「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。平成十一年七月二十一日 江藤淳」とある

いい加減な態度をとる吉本は 生きる権利を主張して生きようとし 真面目な江藤は真剣に考えて生きる資格はないと自死したことになるのですが お二人共 人として 老人としての責務を果たしていたかなどということとは別に考えずに 自分の死に方を決めておられる

高名叡智の方ですから 人としての責務を尽くしておられるに決まっていますので それぞれお好きな死に方をなされる権利があったのだと思いますが なんだか老人の責務を果たさなければ生きる権利がないというふうに考えているマイクには どちらもあまり参考にならない死に方の選択方法であるように思いました

もっと我々一般人や悪人の場合に 老後の長生きの必要度(権利)を考える指標を考えようとしているのですが 「老人の責務」とはどのようなものになるのか それが指標となりうるものか
まだまだ見通しがつきませんが しばらく考えを続けます

 

2013/3/8「老人自ら責務を感ずべき」

「責務」のカテゴリーを作ったのは 末期自死の社会的容認の難しさを直感するばかりに それを社会に訴えるには 考えもしない老人たちを責めることから初めて見るのも策略となるのではとの思いからでした
自死こそ仏教的に理想であり 自死をも考えておくことこそ老人の責務であり そう思わない社会こそおかしいのではないでしょうか
老後を個人の処世として楽しく生きれば良いとしか考えない自己中容認社会ではなく 老人はいかに現に役に立っているのかを認識せねば生きる価値や権利もないはずです
やれるのにやっていない 役立たずで無責任無意識な老人を 社会挙ってこれこそ福祉だと 定年と年金の老人天国を作り上げてきました
そのツケがやがて財政破綻無気力の日本として現実のものになるのです
このようにしたのは 波に乗り成長した日本経済にした老人でもあるのです
成功ばかりではなく 失敗を結果として残すことになる老人が反省し 懺悔し世直しをする責務があるのです
老人福祉の社会的コストはもっと生産性ある若者に向けるべきですが そのように仕向けるべきは老人自らでなくてはできないのです
そうすべき責務を強く感じてなりません
社会的負担になることをもっと自覚し 自分の社会的意義をも意識したいものです

 

2013/3/10「要援護者としての末期老人」

3月8日の最後に 「社会的負担になることをもっと自覚し 自分の社会的意義をも意識したいものです」と書き込みました
これは老人末期のケースだけしか考えていませんし 心身障害者などの弱者切り捨て的な社会福祉を意味するものではないのですが それとの関連を避けているところに マイクの意識の足りなさや不完全性があります
能力があるのに 老人福祉を権利として享受する我々日本の老人に違和感を感ずるので この点を考えようとしています
要援護弱者に支援をするのは 当然倫理的で正義なのには間違いありません
老人とてそうですが やれるのにやらない タダで福祉支援を受けることに何の違和感もない日本的感覚に苛立つのです
欧米では自立を大事にし 老人ばかりでなく障害者を自立のための支援しますが 障害者老人ともに自立心が高く と言うより当たり前になっており 福祉天国日本には自立心が欠如が甚だしい

話変わって 昨日は草津で「ダンス街道」なる50日間毎日あるイベントの最終日で アミカホールで マイクの所属するオヤジダンス「ロスホコス」が コミュニティダンスを演じて 楽しくまた好評であった
障害者施設の仲間たちのステージダンスもあったが ダウン症の彼らの動きの中にエネルギーと集中力が凄い作品にしていた
何よりも彼らのハチャメチャに見える表現には 我々ならためらいそうな分散力を持っており 我々の知らない本能を教えてくれて 素晴らしいアートでした
彼らはいっぱいの支援を受けて 生きているのですが 老人問題を考えるときに彼らのことをも避けては論じられないと思っています

 

2013/3/13「生きていていいのか死ぬべきか」

老人や障害者等の弱者にも 生きていることの責務を問うとすれば これら「要援護者」が権利を主張してくるであろう自立支援が必須と言えます

自立支援とは 単なる受身の福祉を受ける権利ではなく 積極的自己決定権を支援するものでなければなりません
その上で支援を受けた人にも責務が発生すると言えます

生き方を自己決定できるような支援をしてあげなければなりません
そして生き方だけではなく 死に方にも自己決定の権利や責務が問われるようになるでしょう
しかも要援護者には 死に方にも支援を必要とするでしょう
そのためには自死相談や自死自己決定支援と実行ための 自死援護支援機能のある施設が必要になるのです

「老人終末期センター」にはエロスセンターの様な「楽しい死」の体験サポート機能と 自動自死マシンが必要な事を何度も述べましたが これは憲法や法律で保障された弱者の権利なのです

特攻隊の自決は 自死マシンに乗っているようなものです
自爆テロも自決であり 共に責務に燃えた人達の行動です
責任感と義務感と行動力を備えた人達なのです

彼らと同じように 全ての人は 援護を受けた弱者や老人も 生きている事に責務を感じ 生死を自己決定する事を迫られていい筈です
憲法や法律で人権や生活権が保障されているのならそうあるべきです

つまり全ての国民は 生きていていいのか死ぬべきかを常に考え 自己決定する責務があると言うことです
そしてその判断に従う自由があるのですが その判断基準というものが並々ならない難問なのでしょう
その自由というのも かなりの制約がある筈です

だからこそ これからもっと議論し考えないといけないのですが 先ずはメメント・モリ(死を想え!)を万人が弁えなければならないと 万人に訴えたい思いです

 

2013/3/14「老人よ!早く逝くべきか」

老人がメメント・モリを忘れてしまったのは 戦後の個人主義教育のせいでもあります
また戦後の幸運な高度成長経済は 自己中生活を可能にし 殆ど個人の力で今の日本があるとの自負心のあるサラリーマンを作ってしまった
人は一人でなくお互いの絡みや助け合いによって生きているのですが 今の老人のほとんどがそれを自覚しようとしていません
その結果 今の衰退日本を導き 若者や子孫に負担をかける日本にしてしまったというのに!

こんな自己中老人に懺悔させ 罪滅ぼしをさせようとの思いがマイクのHPの源泉なのです
さてさて こんな思いを老人にぶつけようとしても いつもながら反発を喰らいます
老人の責務として こんなことをも認識しないで死んでしまったら 閻魔様に獄門を迫られるに決まっています
今生きることの意味や価値を考え思うことから始め 反省や懺悔罪滅ぼしなしでは死ねないはずです
少しでも考え そうでなければ少しでも早く逝くべきで それしか救われないと思います

2013/3/15「人間には責務」

今日の新聞には 成年被後見人に選挙権をとして 公選法の制限の違憲性を地裁判決したとある
またテレビニュースで 生活保護者が過度のギャンブルを規制する小野市の条例の問題点を報じていた
ともに自己決定する権利剥奪に対し それを擁護するのですが どうも何から何まで優しい日本では 擁護援護支援こそ憲法理念だとしており 権利あるものの責務について語ることを忘れているか避けている

老人ならずとも万人が自己決定権を持つといえども 共生する我々万人はその自由に責務を持つ
それを意識することくらいは万人の最小の責任で 考えれば考えるほど自分の無責任を恥じて 生きてゆく価値や意義を見いだせなくなるのが普通人です

まして他人をそのことで責めることなどもっとケースバイケースなことで 簡単ではない
しかしこれを無視してはいけない
人間とは何か 人権とは何か 尊厳とは何か 自立とは何か 理想の人間関係はあるのか 人間の理解を深めることを生きている万人が意識する責務があります

人間の理解 (新・介護福祉士養成講座) 中央法規

2013/3/15「唯の馬鹿老人こそ幸せ?」

高度成長経済を無意識に満喫し 唯に自己中な生き方が当たり前と思ってしまった今の老人達は 余生をも唯に自己中で楽しく終えることしか考えていないのです
更に加えて儒教思想がまだ健在で 社会的な敬老精神は残っていて 老人擁護の制度が充実し 自己中元気老人までもが老人天国を享受している
定年と年金のセットで経済的に十分豊かで自由な時間と生活内容が保証されている
現役の人達の極悪な就業状況や 将来が見えない不運な若者が満ちている社会からは 信じられない天国です
老人福祉政策で健康を支援され 社会に無関心で不平もなく 元気で遊ぶ事を奨励され 愚民たることを幸せと思うように仕掛けられている
高齢社会の問題は 愚民の増加を放置・容認している事なのです
高齢でも社会貢献が義務化されなければなりません
働かざるもの生きるべからず
働けないものだけに支援が必要ですが 今のマイクも含めて 元気老人に老人扱いは不要です
老人の務めを忘れてしまうくらい過保護が当たり前になっています
これは社会的な問題ですが 社会的なディスカスを避けて通そうとする日本人特有の社会風習が原因です
こんな状態だから 生産性のない老人への医療・介護はどんどん増え 日本は沈没するでしょう
こんな日本を救うには 愚民老人が社会から生かしてもらっている事を自覚することから始めるしかありません
少しでも多くの老人が社会的責務と言うもののある事をまず意識したいものです
そうでないところに 安楽死や尊厳死などとても社会的に容認されないでしょうし 「楽しい死」など実現不可能でしよう

 

2013/3/16「獣として生きるか人間として・・」

つまりのところ 人が人間として生きるか獣として生きるか
老人福祉法を眺めてみると その理念として 「生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする」 とある
また「その知識と経験を活用して社会的活動に参加するように努めるものとする」
更に「希望と能力とに応じ適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする」 ともある
老人天国を保障はするが 社会貢献をするべき責務があるとしている

一人勝手に生きられるなら人は獣で生きたらいい
行政・福祉を受けるばかりでなく 共生する市民生活にも多々恩恵を受けている
援護を受けるには感謝が必須ですし お返しができる能力のある限りそれに努めなくてはなりません
分かりきったことを忘れてしまっている老人は 獣なのです
獣も死に時と死に方を考えて死にます
それを忘れた老人は 獣を見習わなければなりません

死に時と死に場所と死に方を 早いうちに考えましょう
先入観習慣風習に拘らず できるだけ本能に従って 悟られることをお勧めします
その時は遠からず近いのですから考え焦りましょう 簡単でないのですから 

 

2013/3/23「快楽支援短期老人ホーム」

マイクは老人問題解決手段の一つとしての積極的死を 終末期に限って論じようとしてきました
それは元気老人や くたばっている老人の生きる価値について考えることの面倒さを避けようとしてきたからです
しかしそれを避けてはならないとの思いから「老人の責務」を考えてきました
詰まりやっぱり老人だけではなく 人は生きる価値を考えないといけないのです
その上で 終末期の老人が積極的な死を受け入れると同じように 終末期ではなくとも そろそろ生きる価値がなくなったと悟った老人は 積極的な死を受け入れられるようにすることは 社会的に必要になると思います
大掛かりな手術や治療を受けるか それともそれくらいの費用を掛けるくらいなら 積極的に楽しい死や嬉しい死を指導・支援してくれる健保・介保扱いの老人支援センターに身を任せることができるようであっていいのではないでしょうか
老人ホームを ウクレレで訪問するボランティアを数年やっていますが マイクには耐えられない集団生活で 酒・タバコ・外出が規制されているのを見ると 老人ホーではなく 短期快楽享受支援ホームなどの施設があれば 遊び疲れて満足し 積極的早死にをしてもいいと思ってしまいます
このような不遜なことを考えるだけで批判されそうですが こんな思いがあるだけで 本当にそうできるか そうすべきかについてはまだ自信がありません
誰でもそうすべきだとは言えませんが その方を望むマイクのような者も多いのではないでしょうか
もう少し更に考え続けたいと思います

 

2013/3/27「須原・三島のように梅原猛も」

金田さん・ルートヴィヒさんのような啓蒙活動には頭が下がります
しかしマイクのような老人には少しでも早くそのような制度や施設が整った社会の到来を焦り待っているのです
公的な制度は 社会の実態に遅れてしか生まれません
実現のためには啓蒙活動に先導された あるいは扇動された愚民でも誰ででもが実践し伝染しなければ顕在化しません
もちろん衆愚ではなく 知識人が率先して行動すべきことなのですが そのような風潮を今の知識人に期待し待ってもいられません
このブログを立ち上げるキッカケを頂いた自死本哲学者須原や 堕落した世を嘆いてそれを示さんと自決した三島のように 賢者には持論の実践の責務があります
尊敬する梅原猛や山折哲雄に対して 哲学や仏教を自分の学問として利用するだけに終わらせるのではなく 自分がすすめる死に方をその通り実践して世に示して欲しいと何時も願っています
須原・三島のように88歳の梅原猛は少しでも早く責務をと・・・
マイクもいずれ実践者となることを夢見ていますが その時期や条件ということについての推敲をもっと重ねないと 決断できません
安楽死の条件など 参考になる論議を勉強したいと思います
これこそ難しく 多くの知識人が議論に参加されんことを期待します

 

2013/4/2「須原の自死は責務を忘れている」

金田さんからコメントで 藤子F不二雄の「定年退食」という漫画をご紹介いただいた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%B9%B4%E9%80%80%E9%A3%9F
高齢社会で直面する問題を1970年代初頭に予測した作品。本作で登場する国家は、減少を続ける食糧生産状況を解決する方法として、非生産者の切り捨てを行う事で問題回避をはかった。それは、非生産者となる定年のことを1次定年(56歳から)とし、国家の扶養を失う事を2次定年(75歳から)=切り捨てとする法律の施行である。

2011/6/23
のブログに 浅丘ルリ子が主演する映画「デンデラ」のことを書いた
監督天願大介は「楢山節考」の今村正平の長男で このような社会問題の再来を考えるべき時代が確実に来ていると思った

2012/3/10
のブログに『七十歳死亡法案、可決』垣谷美雨 幻冬舎 を終活本紹介した
2020年には 70歳を超えると 30日以内に死ななければならないと言う強制自死法案が出来ると言う小説です

漫画や映画や小説は 時代を直感し予測し社会問題を勇敢に取り上げる
政治家や学者は 輿論を待たなければ動かない
しかし愚民やジャーナルのつくる世論は 漫画や映画や小説ではなく 事件でしか反応しないのです
そんな訳で 安楽死の法制化はまだまだでしょうが そうなるにはどうすれば一番効率的か
勇気ある人たちが 事件や世情実態を大事に分析し それをアピールすることが与論に繋がればいいが 予測より結果でしか自覚できない衆愚日本なのです
老人賢者が事件を起こすことを願って止まないマイクなのです
老人が死を賭けてアピールするしかないのですが これは並大抵ではありませんが 三島がやろうとしたように 須原はそれを出来たのに惜しくも勿体ないと思ってなりません

 

2013/4/3「詐欺泥棒は自分から刑務所へ」

老人の責務を老人問題と考えるようになったのは マイクも含め年金生活を当然の権利として 老人には社会的責務が何もないかのように 自己中で無神経に遊び呆けて暮らしている気儘な老輩が殆どなことに我慢がならないからでした
元気老人は 例え資産家であろうと共助社会の一員として社会的に働かなければなりません
働かない金持ちとか年金生活者は 詐欺師や泥棒と同じ罪なのです
ましてこのような停滞日本にしたのは上司の機嫌をとるだけで創造的文化的な仕事を怠ってきただけの元サラリーマンの所為なのです
これを生きているうちに懺悔し 罪滅ぼしするべき責任があるとマイクは考える
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月から改正高年齢者雇用安定法が施行されたが これは年金財政難からの福祉削減後送り策でしかなく 老人に倫理責任を説くことを忘れています
金持ちで十分遊んだ方は 早めに資産を寄付し ナンマイダを唱えながら自死オートマシンのスイッチを入れて罪滅ぼしすることをお勧めしたいのですが どの時点でどのような条件でそうすべきかが難問です
もっと難しいのは 罪なき貧乏人が生きながらえていけるかどうか 障害者などの弱者はどうかです
これから切り捨て強制法が出てくるでしょうし そのような基準が時代とともに厳しくなっていくのは目に見えていますが なってからではなく 救える策を考えておきたいと心配性のマイクは思う

弱者が罪を犯すのは 弱者を作った強者の罪へのささやかな裁きなのです
弱者には刑務所ではなく安楽死施設から天国へ行く選択自由が必要かも

 

2013/4/3「人生最後の希望も盡ならない」

今 NHKクローズアップ現代で 「凛とした最後を迎えたい」延命せず最後を迎える高齢者たちの選択 を放映している
延命治療を希望する人が11%でしかない統計が示す現実でも 大多数の人の望む尊厳死が叶えられない現状をNHKまでもが報道している
つまりそのことは既に尊厳死は社会的容認事項になっているのに NHKはそれの現実的難しさを訴えているのです

安楽死もやがて社会的な容認になることは分かっていても 簡単ではない時代の流れを待つしかありません
況してや終末期ではない安楽死や 罪のない弱者までもが容認されることは 人類が宗教や倫理までをも捨て去るほど落ちぶれるまでは有り得ないでしょう

それでも 社会的容認にならなくても 次第に裏社会では容認されてゆくことでしょう
そのような裏社会の必要性まで否定されるかもしれないのが現実の社会なのです
社会の厳しさや反社会性に 楯突く仲間がいることに少しの安心感で癒されるマイクです
老人がその裏社会を自ら築く責務があります

闇の安楽死施設や ビジネスとしての施設が発生するのは 確かに近いと言えます

2013/4/15「障害と終末期と痴呆の現場を見よう」

「重い障害を生きるということ」 高谷 清(岩波新書)

曲がった手足は意志とは無関係に緊張し、呼吸も思うにまかせない。はっきりした意識もないかに見えるこうした心身に重い障害のある人たちは、世界をどう感じているのか。生きがいや喜びは何か。長年、重症心身障害児施設に勤務する医師が、この人たちの日常を細やかに捉え、人が生きるということ、その生を保障する社会について語る。
今 この本を熟読しています
高齢者医療介護の貧困の現実を知らずに さっさと死ねとか楽しく死ねと言ったりしていることの不遜さを確かに謙虚に内省しなければなりません
しかしもっと現実を知らなければならないのが また安楽死などを社会に押し進めるために避けてはならないのが 障害者問題を考えることだと思います
どの様な悪魔がいても どんな悪人でも 彼らの生きる権利や保証する社会を否定できないでしょう
なぜなら彼らは生まれてきた喜びや光を求めているのです
しかし現実の苦しみや問題が社会の裏に蔓延しているのです
それを知らない見たくはない人が殆どなのですが だからと言ってそのような人たちを排除できない理性が人にはあるのです
安易に安楽死を勧めらない優しさを人間社会で養われているのです

老人の終末期は確かな高度障害者なのですが 全く違います
充分生きて 遊んできた終末です
未練や強欲を捨てて覚悟する責務があります
しかも認知症になる前にしっかり自己決定しておく必要があります
責務が果たせなくなる前に 痴呆の現実をしっかり見て考えておかなければならない老人の義務があると思います
「認知症と長寿社会 笑顔のままで」信濃毎日新聞取材班(講談社現代新書)

私たちも、この病気をどこまで理解しているのだろうか。認知症であっても、喜びも悲しみも、安心も不安も、つながりも孤独も感じているという。
直前の記憶が分からなくなっていく不安は、迷子のような心細さかもしれない。いら立ちは、不自由を強いられ、自尊心が傷つき、怒りのやり場がないためかもしれない。周囲との摩擦を避けようと、感情を心の底に沈めているのかもしれない。それなのに、私たちは冷たい視線を向けてはいないだろうか。
国の推計だと、患者数は200万人を超え、30年後には385万人に達すると予測されている。それは日本人の3人に1人が高齢者で、その9人に1人が認知症という時代だ。
患者や家族をどう支えていくか。いま真剣に考えなければ、この長寿大国で、命の尊厳を失わずに最期まで生きることはかなわなくなる。

 

2013/4/30「生きている老人には責務がある」

ダンス公演が続いているので 稽古に時間が取られ このブログの書き込みが滞っています
余生に余裕の少ないマイクですので マイクのミッションとする終末期のあり方についての思考を展開させるべく焦っているのは間違いないのですが 雑事に時間を取られたり 酒の飲みすぎでどうしても最近のロウトルマイクには元気が足りません

先週 マイクが勤め終わった会社の入社同期50周年の集いが琵琶湖エクシブであった
150名入社で今連絡付く者が110名
その内の参加者は34名 翌日ゴルフ参加者は17名でした
東西に散らばる同期の仲間だから 同期会参加者は元気だった現役の頃でも同期の半分の75名くらいでしたが 今回はその半数になってしまった
欠席者の事情は色々あってでしょうが この歳になった今 半減したのは察するところ健康問題なのでしょう

つまり生きてはいても4分の3が 同期会参加が面倒なくらいになっているのです
参加した人のそのまた半数が雨の中ゴルフに参加したのは ゴルフするほどの元気な人が8分の1もいるといことです
しかしそのゴルフ好きの人たちも 何やかやと病気持ちや病気上がりなのがいっぱいいたのが実態でした

マイクの大学同窓24名の内8名が亡くなっています
そんなこんなで自分の死に時を否応なく考えさせられてマイクはこのブログを進めているのですが 会社の同期の仲間も大学の同窓生も 自分の死を考えようとする者は全くいません

余生をゴルフ三昧で楽しもうとするものと なんとなしにその時を迎えればいいと思うものばかりです
マイクは偶々成長経済時代に働き ラッキーなサラリーマンをエンジョイした同時代のオッサンが 次の世代のことを考えずに自己中に遊び終えてしまったことに社会的責任があることを自覚すべきだとの思いで HPやブログを立ち上げてきました
死について考えるべきと言うだけででなく このような減退日本にしてしまったことに 自身の責務をも自覚すべきだと 人ごとながらお節介にも訴えていこうとしているのです

右端が2013.4.20/21公演「30’s三十路式」@神戸ダンスボックスのマイク

 

2013/6/6「自己中老人は責務がある」

時代とともにおやじの威厳がなくなったと同じに 老人の威厳は微かどころか 次第に醜さが目立つ
「老人の責務」のカテゴリーを作って考えようとしたのもそのためでしたが 言い尽くしてもいないのに 思考が発展していない
そこで「知っていますか?高齢者の人権一問一答」解放出版社 と 「知っていますか?障害者の人権」解放出版社 を読みながら考えてみました

老人や障害者の権利を訴える常識的な内容でした
ただ一つ障害や母性保護の優生思想について もっともっと勉強の必要を感じました

老人や障害者の自立支援についての記述があっても 常識的なものでしかなく 却って権利ばかりを主張しているように見られます
老人と障害者にも責務があるはずで 老人や障害者をも真摯に責めることを避けてはならないと思います
特にマイクと同じ老人をもっともっと責めたいのです 

「挑戦するアメリカ高齢者パワー「自己責任の国」の老後事情」宮本倫好 亜紀書房 (2000/10)

国にも子供にも頼らず、自分の才覚で晩年に立ち向かう巨大な人口層の明暗を描く。富者の天国レジャーワールド、政治の動向までも左右する退職者団体、過激な安楽死論争、福祉の荒野を埋める多彩なボランティア活動同じく高齢大国へと突き進む日本に投げかけるものとは。

 

2013/6/15「これで死ねると言えるとき」

今朝の新聞に鷲田清一が「これで死ねると言えるとき」と題した文章を載せている
昔の人は 死に際して 「これで死ねる」という言い方をした
これは みずからの死に覚悟が出来たというよりもむしろ みずからの死によって起こりうるすべてのことに できる限りの手が打てたという納得を言っているのだろう
ひとの矜持というものがここにある
そういう矜持を 政治家のみならずこの時代に生きる者として 私たちもいつかもてるだろうか


そして今日明日ではなく明後日の世代に向けておこなうこと それが私たちの義務であると述べている
バブル享受世代のマイクは 失わせてしまった多くのことに責任を感じて 自ら懺悔するだけでなく 同じ仲間に罪滅しの必要を語ってきました
つまりそれは老人の責務なのです

ただ 知識人たちが懺悔を語るだけでなく 罪滅ぼしとして世直しとなることをも実践し示さねばならないのです
それには知識人は何をすべきか マイクのような老人が何をなすべきか
老人の責務を考えるだけでなく 早く実践し示さなければなりません

その具体例のひとつは 終末期になったなら さっさと逝くことかも知れませんし それには楽しく矜持して逝く先例を少しでも早く老人の誰かが作ることです
それがバブル享受老人の責務と使命なのです
過ちは死んで償うか テロで

 

2013/6/30「最後に自刃で責務をと言いたいところだが」

マイクの親友が アメブロで 毎日「古都のブログ小説・お雪」を連載している
維新の歴史研究家と 戯曲・小説の作家また朗読劇演出家でもある彼は 京都を愛し単身京都の生活をエンジョイする

http://ameblo.jp/oimukaikaze/
小説は読んではいないが 古都での生活の徒然を語っている初めの文章だけは必ず目を通す
その今日のブログに何時ものように「八重の桜」の解説があって 今日だけでも「八重の桜」を見るように勧めていた
テレビは滅多に見ないのに彼の勧めの通りに観ると 今夜は鶴ヶ城が自刃の血に染まる「八重、決戦のとき」であった

昔の人は偉かった
尊厳死としての自刃や特攻隊を選んで尚誇りある
飽食な平和の時代にみっともない・情けない・勿体無いなどが通じないように 現役の人間に人としての懺悔や罪滅ぼしを期待できないが 老人は責務として恥知らずな生き方をしてきたことに反省や後悔を示さなければ 昔の人に比べてどうしても恥ずかしい

つまりこの時代の老人 つまりバブルに怠けてこのような恥ずかしい自己中日本にした老人には 最後は自刃して欲しいというのがマイクの強い要望です
そうでなければ地獄へいくでしょうから
それにしても誇りある自刃は 本当に苦しく残酷なものです
それでも昔の人はそれを選ぶのです

自爆テロリスト達にも劣る自己中老人達に 自刃は無理でも「楽しい死」を選ぶように勧めたい
老人の最後にせねば死ねない責務として
会津紀行C(白虎隊の図)

 

2013/7/4「死の前に死を語ることも責務」

6月29日に 福井の古本屋で買った本「快楽殺人の心理―FBI心理分析官のノートより」ロバート・K. レスラー講談社 のことを書きましたが もう一冊買った「「死の医学」への序章」柳田邦男 新潮社(1986.12.5)(文庫1990.10)を読み始めました

〈死〉をタブーの世界の中に閉じこめておくべきではない。〈死〉を見つめることによって、より深い〈生〉の充足を得ることができるのである。―27カ月にわたるガンとの闘いの中で、自ら「死の医学」を実践して逝った精神科医・西川喜作。その雄々しくも苛烈な生の軌跡をたどりながら、末期患者に対する医療のあり方を考える。高齢化社会における医療文化への示唆に満ちた提言。

ルポライター柳田が がん患者西川が医者の責務として柳田に託し残した文章を下に メメントモリを唱えている
医師でなくとも 自分の死を見つめ 思いを語ることは人として人生の最後に語らずにはおられないはずです

マイクはそこまでの切羽づまった段階ではないのですが その時になってからでは遅いとの思いから早めに知り考えることを始めました
そのきっかけとなったのはこのブログのタイトルである「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」須原一秀の本でした
「死」を説得できるのは「死」でしかないのですが マイクはただの死ではなく「楽しい死」ではないかとの思いからこのブログを継続しています
それがまた「老人の責務」ではないかと思います

 

2013/7/8「社会問題としての老人の責務」

老人が老人たるには メメント・モリ(死を想う)は欠かせないが 考えるだけでなくカルペ・モリ(死を実感する事)を急がなければなりません
そしてその時までには確実な「楽しい死に方」を見つけられなければ悲惨なのです
マイクはマイクだけの問題でなく 社会問題として考えようとこのブログにカテゴリーを設けて考えています
マイク個人の死の考え方や方法は マイクのHPのページにグラスノスチしています

しかし死の前に 老人が果たすべきことがあります
自分の人生の反省としての懺悔や 罪滅ぼしを抜きに死ねないのです
それを一般論としてマイクはこのブログに「老人の責務」のカテゴリーで考えようとしています
マイクの個人の懺悔や罪滅ぼしは マイクのHPのページにグラスノスチしています

今朝の新聞に 65歳以上の「高齢者の万引きが 少年を抜く」とありました
都内の12年の摘発者数の警視庁調査で 99年336人(全体の6.0%) 12年3321人(24.5%) 
19歳以下の少年は 99年2092人(37.6%) 12年3195人(23.6%)

12年高齢者摘発者の 無職が72.7% 生活保護受給者11.3%
動機は 生活困窮32.6%(その7割が食品) 相談できる人がいないが32.4% と言う
高齢者の孤立と 再犯者の仕事や身寄りのない社会問題を象徴しているともあった
(99年からをグラフにすると 03年から08年にかけて急速に増えています)

万引きに限らず 老人犯罪が増えているとの報道が前にもありました
このブログ2012/11/16の「犯罪老人確実に増える」に 「12年版犯罪白書には 昨年の車の過失を除く一般刑法犯で摘発された70歳以上の高齢者は3万2262人と 過去最高だとある」と紹介しました

自己中無責任老人が増えているのです
万引きどころではない怖い犯罪が増えているのです
貧困や格差が老人の心を蝕んで当たり前なのです
社会問題としてマイクは「老人の責務」を訴えていこうと思います

車の過失を除く一般刑法犯で摘発された70歳以上の高齢者数

 

2013/7/12「選挙よりも老人問題を先ず語ろう」

自己中老人の万引きどころか刑法犯が確実に増えていると 7月8日のブログに書き込みました
今日は宝塚市役所に 63歳無職の高橋昭治が税金の差し押さえで腹を立てて相談職員とトラブルになり 用意した火炎瓶を投げたニュースがトップです
今朝は奈良の元教員の老女のゴミ屋敷がテレビで久々に取り上げられていた

老人の大半はこんなものばかりで 大なり小なりこのようなものの予備軍なのです
これからは予備軍が確実に台頭してくるでしょう
そのことを自覚すべきはこれからその被害を受ける若者なのですが 優しい日本の若者は選挙にも無関心なくらい また親にも負けじと自己中でしかないのですから自覚も嘆きも対応を取ることもないのです

マイクは自覚しようとしない老人自らが このような日本にしてしまったことに懺悔しない限り このまま日本は沈没していまうことを予感し また老人はこのままでは地獄に落ちるに決まっていますからそれを救うべきと余計なお世話だと言われながらもしようと決めています
しかしマイクぐらいがこんなブログで嘆いてみても何にもなりません
もっともっと大きな事件が頻繁に話題になるまで日本は変わりません
確かに選挙ぐらいでは安楽死法案や 老人懺悔強制裁判(生前裁判・生前閻魔法廷)法案などが実現することはないのです
投票の前に このような現実をどうにかしようではありませんかと 身近な誰でもに語りかけたいものです

 

2013/7/18「最後まで自らを決めるべき義務」

今朝のABC放送道上洋三おはパソで 「医者が教える 人が死ぬときに後悔する34のリスト」川嶋朗 アスコム (2013/6/27) の作者と対談し本の紹介があった

この本では、
人が死ぬときに後悔することを
34
のリストにして紹介しています。

リスト1 「なぜ生きたいのか」を真剣に考えてこなかった
リスト5 生きているうちに「ごめんなさい」と言えなかった
リスト10 人に言えない悩みを引きずってしまった
リスト13 病気のせいで夢をあきらめてしまった
リスト15 途中で病院を替えることを躊躇してしまった
リスト16 セカンドオピニオンを聞かなかった
リスト18 健康診断で病気にされた
リスト21 延命治療を受けてしまった
リスト23 家族に無理やり入院させられてしまった
リスト31 「愛している」と言えなかった
リスト33 エンディングノートをつけておかなかった


幸せに死にたいなら、医者頼みやめようと説く東京女子医科大学准教授 川嶋朗氏は 食道がんやいろいろの病を持つ
69歳が死時と決めている56歳
QOD(クオリティオブデス)と 「死は義務」という言葉があったし 死ぬ前に「やっておくべきこと」を考えるべきとも言う
個々人が死をしっかり意識し 延命治療の要不要を自分で決めることができるようになれば 医療費の無駄が削減でき 個々人の生活の質も高めと言う統合医療をなされている
自らを決めない人任せな日本人を諌めているようです

 

2013/7/19「幸福な死を考える責務」

昨日の川嶋朗さんの「QOD(クオリティオブデス)」と 「死は義務」という言葉から 調べてみると 『医師が教える幸福な死に方』川嶋朗 角川SSC新書(2012325日)もなかなかの本だと知った
この本の狙いは「はじめに」に簡潔にまとまっている
http://futennochun.cocolog-nifty.com/gungungunma/2012/06/post-884e.htmlには読後感ブログがある

「長生きをしたいのなら、これからの時代は一人ひとりが『自分の体については自分で責任をもって管理する』という意識を持たなければなりません。そうしなければ、社会の高齢化の急速な進行により、高齢者の医療費増加、介護の問題などがさらに深刻化し、医療は崩壊してしまうでしょう」。
 「私たちは、自分の寿命について考えることを先送りにし人任せにして、無自覚ですらあると言えなくもありません。その結果が『ただ長生きでいいや』につながり、昨今生じている医療現場におけるさまざまな歪みの一因になっているとも言えます」。

 いま、消費税増税が最大の政治課題になっているが、その背景には高齢化に伴う社会保障費の膨張がある。しかし、「一人ひとりが『自分の体については自分で責任をもって管理する』」ようになれば、社会保障費の膨張に一定の歯止めがかけられるのは間違いない。社会保障の問題は、本来はこうした国民一人ひとりの自覚の問題にまで踏み込まなければいけないのだろう。本書は、健康に生き、幸福に死ぬために我々が何をすればいいかを具体的に示してくれる。
 

 まず問題点から。
 「2010年時点での国民医療費は、37.5兆円まで膨れ上がっていますが、これは同年の国の税収41.5兆円に近い数字です。さらに15年後の2025年には52兆円に達すると、厚生労働省は試算しています」。
 「現在でも国民医療費総額の約半分は、65歳以上の医療費が占めていますから、今後、医療費が増大することは避けようのない現実です。さらに、一人あたり2300万円といわれる生涯医療費の半分は70歳以上になってから消費すると言われているのです」。
 「高齢者、そして私も含めたその予備軍である世代の人たちは、『医療費を減らすために自分たちができること』を考えるべきなのです」。

 消費税増税の議論の中で、「行政の無駄などを減らせ」とよく言われるが、「自分たちの医療費の使い方を見直そう」との呼びかけはあまり聞こえてこない。不健康な老後を送ることは、本人も家族も、そして国にとっても不幸なことなのだ。「医療費を減らすために自分たちができること」を見ていこう。

 「ただ単に、『死なせない医療』を受けて、『名ばかりの長寿』を喜んでいるという時代は終わりにしなければいけません。高齢化する社会の未来を明るいものにするためには、より実りのある『質の高い寿命』を全うすることが大切です」「言ってみれば、QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)を保ち、QOD(クオリティ・オブ・デス=死の質)を高くして人生を終えることが大切なのです」。
 「『QOD』とは、超高齢社会をよりよく生きてほしいという願いをこめて、私が提唱するキーワードです。最期の瞬間まで、『本人の理想とする生き方をし、残された家族にも後悔の念を残さない死に方をする』ということです」。

 以下、QOLQODを高めるためにすべきことを詳しく説明している。
 「たとえば、今60歳の人が、当面の寿命の目標を80歳までと定めれば、あと余命は20年です。さしあたって、健康診断を受けましょう。そして、今の健康状態に照らして、20年を元気で長生きするためには、何をするべきなのか、あるいは何をやめるべきなのかをリストアップします」。
 「自分の体の状態を相談でき、ただやみくもに投薬をすすめるのではなく、適切なアドバイスをしてくれる医者を見つけるべきです」。

 「日頃から、『死ぬまでにやっておくべきこと』をきちんと整理し、実行していくと、QOD(死の質)の高い死を迎えられます」「
 『やるべきこと』は『財産管理や遺産相続をどうするのか』『受けたい医療や介護、延命治療の要不要は?』『葬儀については?』『家族に言い残したい遺言は?』など、自分のためであると同時に、残された人々が後々困らないために、やっておかなければならないことが中心です」。

 「延命治療にはさまざまな方法がありますが、患者さん本人やその家族は、回復の見込みがないのに人工呼吸器や人工心臓、人工透析、輸血、水分・栄養補給、薬剤投与などで延命を図られること対しては総じて否定的です」。
 「人工呼吸器や人工透析など中断すればすぐ死に至る治療を、始めてしまってから中止するのは家族にとっても医者にとっても非常に重い決断となります」「ですから、患者さん本人がしかるべき書面などによってきちんと意思表示をし、家族や周囲の人に納得してもらった上で、かかりつけの医者などに事前によく相談しておくことが重要なのです」「いわゆる『事前指示書』、あるいは『リビング・ウィル(尊厳死宣言書)』によって意思表示するということです」。

 殆どの人は、なかなか自分の死を具体的に思い描けないのではないかと思うが、老いてから死ぬまでのプランニングはをしておけば「終わりよければすべてよし」になるのかもしれない。


殆どマイクの心配をそのままを本にしておられる
でもこの様な社会的な問題に 個人が応えれるか 応えるべきかは別のことのように思います
また個々人で死ぬまでのプランニングをしっかりしておけば「死の質」が約束されると言っていますが それだけで十分「幸福な死」と言えるでしょうか また個々人に任せて出来ることとは思えません

マイクは更なる具体的方法探求が必要に思います
例えば「楽しい死」などがそれです

 

2013/7/22「自己中老人に正義はあるか」

自己中老人犯罪が確実に増えるのは誰も否定できません
それも他人事ではないと 実はマイク自身が考え心配しているのです
マイクの考えてきました老人のすべき「懺悔や罪滅し」として マイクが憧れているのが「世直し仕掛け人」です
自己中社会を作り上げてしまった張本人としての責務として 「正義が失われた社会」に閻魔大王に代わって征伐をすることが「世直し・罪滅し」となると信じています
このブログで何度もこの考えを正当化しようと書き込んだり 老いたる友人に話ししたりして「仕掛け人登録」を募っていますが 誰からも相手にしてくれません
この考えは忠臣蔵のような正義ですが 何故か許されないのでしょうけれども マイクには何故そうなのか分かりません

「正義という名の凶器」片田 珠美 ベスト新書(2013/5/9)

「あなたのやったことは間違っている。私が正しいのだから」という考えの元、徹底的に悪の糾弾を行い懲らしめ、相手が許しを乞いても尚、激しく攻撃を続ける。時にして、相手の命を奪うことすらある。 いじめ、体罰、ストーカー、地域紛争、戦争。社会の揉め事の起因が、この「ひとりよがりの正義感」にあることが多い。 人はなぜ、正義を振りかざし、相手を叩くと気持ちよくなるのだろう? そして、なぜターゲットを変え、何度もこの行為を繰り返すのだろう? 「正義の仮面」の下に隠された現代人のかかえる数々のトラウマ、「正義を振りかざしやすくなった社会」という2つの側面から、今もっとも恐ろしい「正義依存という病」の本質に迫る!

精神科医が 嫉妬や自己正当化の心理から 独り善がりの正義が暴走する現代社会の病理を警告する
つまりマイクもその危険人物なのでしょうか 心配です

戦後の履き違えた自由主義・個人主義が 無宗教成長経済の日本では「自己中でも安易な生き方」として大人が実践してみせた
もうひとつの原因は 自己中放任社会を規制するために生まれたマニュアルと監視のシステムです
広島女子放棄事件などは ただの自己中だけではなく 自己判断不要のマニュアル思考で生きることを普通にしているので 罪悪判断もマニュアル任せの他人ごとなのです
そのマニュアルも 倫理マニュアルではなく他人のツイッターやLINEの書き込みでしかないのです

思考・熟考なき即反応する若者やタレント そしてマスコミ
面白ければいいと世間が教えているので その通りマニュアルを勝手に自己設定して暮らしているのです
本人の気まぐれ自己中行動ではなく そのような生き方が社会の正義としての倫理マニュアルに既になっているのです
そんな倫理を老人が導いてきたのです

短文即決文化のアヤブさを誰もが感じていることも確かで それを管理監視する社会に進むことは致し方ないと誰もが思っている
老人だけではなく 社会は自己中監視社会に進んでゆくのです
正しさ・正義は 短文文化では却って間違いを生むでしょう

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2013/7/23「老人に監視カメラを」

またも 山口の田舎で 63歳男が近所の老人5人を殺害・放火した事件が新聞TVを賑わせている
容疑宅の玄関先に「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」と張り紙してあると言う
近所付き合いがないのに しかも3台の防犯カメラを設置しているとか


「私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について リキッド・サーベイランスをめぐる7章」バウマン・ライアン 青土社 (2013/5/24)
私たちはインターネットの利便性とひきかえに実はその行動をすべて監視されている――。多くの人が、ツイッターで自らの情報を公開し、さらには、その日の他人の行動を常に気にしながら日々を送っている。そこにはもうプライバシーなどなく、常に誰かから「監視」されているのだ。軍事・文化・社会といったあらゆる分野においておそるべきスピードで進行している世界の変化を、世界を代表する二人の社会学者が語りつくす。本書を読めば、いま世界で起こっているすべてがわかる必読の書。

原題は「リキッド・サーベイランス ある会話」で ポーランドで迫害を受けて英国に渡ったバウマン(著作多数)と スコットランド出身カナダで監視社会論第一人者の対話
道徳が人間の手を離れて機械やシステムに委ねられ 人間が責任逃れする時代に!!

無責任時代はこれから先の彼らの時事放談的危惧ではなく 昨日の書き込みのように 社会の倫理が子供だましの短文をベースに 世界がどんどん動いているのです
愚かな社会が現実に汚れ染まっているのに 感覚麻痺した社会にどんどん広がっていることを誰も憂いていない

老人だけの問題ではないのですが これも老人が愚かだったからなのです

 

2013/7/24「老人にも免許制で」

老人の責務を考えていると 若者どころか日本の浅はかな文化に嫌気と罪を感じてしようがない
この選挙を見るにつけ 利己的政治家ばかりで腹立たしくなりますが やっぱりなんと言っても一億総白痴 一億総自己中な大衆になってしまったことに問題がある
蓄財を食いつぶし借金で国を回すしか能がない政治家や学者たちやマスコミが 気力のない大衆を騙していけるのは 大衆自身が自己中だからで そうさせたのも戦後の老人の自己中です

『新潮45』8月号に評論家の呉智英さんの卓見が載っていた
特集の「私の憲法論」の中の一説で《いま こそ「選挙権免許制度」を》という題である
これくらいのことを考えないと日本を救えない
安楽死センターなどと同じく 憲法改正でしか実現しないのかもしれませんが もっともっと議論してともに実現して欲しいものです

「ごく常識的な中学校程度の客観的な試験 車の免許よりも簡単なものを実施して「選挙権」を与えるというもの
この程度の試験でさえ 恐らく受験者の半数ほどが落ちるだろうし そもそも免許を獲得してまで選挙権を持とうとする人は多くないだろう」

「ポピュリズムの元凶たるバラマキ普通選挙を廃し 選挙権免許制度を導入するべき」
「識者が投票率の低さを嘆くが 投票率が高ければいいのか
民主主義を国名に入れている北朝鮮では99%の投票率だ
投票率が高くとも何の意味もないことがわかるだろう」


老人にも免許制にして 安楽死センターや 「楽しい死」支援センターを利用できるようにするべきかもしれません
民主主義を考えることもマイクのミッションだと思い HPのマインドイノベーションのページで考えを構築しようとしています
老人の責務として「楽しい死」だけではなく 大事なのです

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2013/7/29「ホーキングファンの物理のマイク」

マイクが2008年に 極めつけのヘルニアで苦しんだとき その身体がどんな苦しさであっても 精神的には充実していることを ホーキング博士の偉業を例えに マイクのもうひとつのブログ「マイクの腰痛日記」に書き込みました
2008/4/15
「痛みがなければ」と 2008/3/15「這ってでも止められない」

今日の夕刊に こんな記事があった

「ホーキング氏の安楽死提案 85年に、妻が拒否と英紙」
【ロンドン共同】28日付英サンデー・タイムズ紙は「車いすの天才科学者」として有名な英ケンブリッジ大のスティーブン・ホーキング博士(71)が1985年に、体調悪化のため医師に安楽死を勧められていたと報じた。博士が新しい記録映画のインタビューで明らかにした。
60年代に難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の診断を受けたホーキング氏は85年、滞在先のスイスで肺炎のため重篤な状態に陥った。医師が生命維持装置を外し安楽死させる選択肢を提案したが、当時の妻、ジェーンさんは拒否したという。

マイクは 死にたいほどのヘルニアを経験したおかげで 身障者の人権を考えたり 安楽死を考えたりする機会を得たのです
60年代に筋萎縮性側索硬化症ALSの診断を受けるも研究は継続されている


発症は30才代 安楽死を勧められたのは44歳 今71歳
彼が安楽死していたら 天文物理の発展は停滞していたに違いない
妻の拒否のお重みを 物理を学んだマイクにとって そして安楽死のシステム化の必要を解くマイクにとって 極めて重く感じます

マイクは安楽死の必要性を確信しますが その社会的なシステム化の多大な困難を予感します
ホーキングと 罪悪を自覚もせず生き延びようとする終末期老人を差別していいものかどうか それすら確信して言えない

ホーキングには私欲がなく 私欲の塊の凡人を同等にするべきではない
それを判定するシステムがある筈です
兎に角ホーキングは美しく まだまだ頑張ろうとしているのです

 

2013/7/31「ボヤキも老人の責務」

ホーキングの安楽死勧告について考えるべきなのに 先ほどのTVで 豪華有料老人ホームがどんどん増えることを紹介していたので 変な気持になってしまったことを取り上げることにします

老人ホームのことは実際を知り尽くせ無いくらい複雑で マイクもその必要な時の前に知っておこうと ウクレレで特養やデイケアなどを訪問したりして頑張って調査していますが 余りにも多様で理解できません

何よりも費用やサービスなどに差が有り 人生の最後に格差をしみじみと味わうことになることを考えると 考え接することすら嫌気がします

今朝の何億円もの入居料のセレブな老人たちの幸せで満足そうな顔を見ると 成金馬鹿としか見えませんでした
ワタミなどの大手企業が ビジネスとしてセレブ馬鹿を利用しているとしか見えません
どちらも自己中で恥ずかしい日本を代表する現象なのでしょう

日本式心配りを謳う老人ホームを成金中国でも拡大しているという
成金老人は 犯罪こそ犯していない優良老人に見えるが 格差社会を利用してきた人たちです
そんなこととには縁がないマイクには 僻みではなく みっともない 情けないとしか思えません
ホームでは 老人がエステをし 英会話を習っていました
あの世でまた成金趣味の美貌を競い 天国でも海外旅行を楽しもうとしているようです
みっともない 情けないに加え もったいないとしか言い様がない

老人ホームでこそ 老人の責務をみんなで語り合って欲しいものです
世界の貧困や 日本の凋落について 老人ができること しなければならないことを考えようとしないで最期を迎えることは閻魔さんが許してくれません

またまたボヤキのマイクです
ボヤキをしない老人たちを見て 少しはぼやいて欲しいと思いました
ボヤキから多くのことが生まれ始まるのです

 

2013/8/1「自己中が自己中を生む」

「セックス依存症だった私」K子(押川剛構成)新潮社(2005/9/29)

テクノ系クラブで手にしたドラッグから、K子はセックスに狂いはじめていった。セックスとドラッグは両輪となってK子の心と身体を蝕んでいった。そして重度の薬物中毒状態からの更正。そのすべてを赤裸々に語る。
精神疾患者の更生をサポートし著作も多い押川が 良心欠如したK子の全てを晒す

「おわりに」で彼は 親や周囲が何故止めなかったのか 問題の核心はそれに尽きるという
それは親や周囲の良心不要の生き方を見て「良心不要を悟ってしまった」ことにある
周囲とは大人であり社会そのものです


昨夜は1961年東映京都作品 中村錦之助主演の「家光と彦左と一心太助」を見た
昭和36年のあの頃は 日本人の心が自己中病原菌に侵されていなかったことを作品に感じながら 時代劇の正義感や人情の機微を楽しみました

暴れん坊将軍や必殺仕掛人が好きなマイクは 時代劇の中に利他の倫理をたっぷり見て涙することが多い
それは今 時代劇の放映も少なくなったと同じに 日本のこころも失われてしまったことへの嘆きでもあります
大人や老人が時代劇を捨ててしまったと同時に日本の心も捨てたのです
子供世代を自己中にしてしまったのは老人自身の自己中にあるのです
太助の腕に「一心如鏡」の刺青

 

2013/8/6「安楽死を誰にでも」

2013/7/29の「ホーキングファンの物理のマイク」を中途半端に書き込んでから随分になる
割り込みの思いが入ったり 最近また腰を痛めてもうひとつのブログ「腰痛日記」の書き込みが多くなったりしたからです

ホーキングは 44歳で安楽死を勧められたほど 普通には大変な身体状態であったことは間違いない
普通にはと言う事は 周囲と本人が普通の能力の人で 普通の経済力であればとの話です
普通の人なら 周りの人に迷惑をかけるくらいなら死んでしまった方が良いと考えるだろうと思った医師から 安楽死勧告を受けたら普通 本人も納得がいくでしょう

ホーキングはそうでなかった
その時の医師は ホーキングの特殊性を理解していなかったからです

普通にこういう言い方をすると人権的差別になるので 現実としては判断をその本人に任せるしかないでしょう
ホーキング本人は自分の特殊性を理解し 妻が拒否した
しかし普通の人は安楽死を拒否できるほど自分の将来性を自覚できることはないでしょう
だのにそれでも生きようとするのが普通です

普通人とホーキングの違いをどこで区別できるでしょうか 不可能です
それなら誰でも延命処置をするか 一律みんな安楽死センターへ強制送還してしまうべきか
社会的にそのような判断に対しての意見は絶対纏まらない

それでも個人的に自由勝手にどちらかを選択できる位のことには いずれ個人主義民主着の社会では落ち着くでしょう
生きるも死ぬも自分勝手 そうなればホーキングもタダの普通人で 差別のない社会的処方になります
安楽死センターは誰もの要望を叶えてくれると言う事になる

話変わって 昨日のJR神戸線の飛び込みで 31本が運休 30本が遅れ 1.9万人に影響があったとある
安楽死センターがあれば避けられたでしょう
いのちの電話では物足りないのです

自らが生きる価値があるかないか 考えもせずに生きることは情けないし格好悪い
そのようなトレーニングは 子供の時から哲学するフランスに見られる
考えずに生きることをみっともないとお互いに考え合う社会になることはフランスやオランダに教えられ 日本にも遅かれ早かれくるに違いない

ホーキングは格好いいと言える
しかし老人ホームのセレブな痴呆者をみっともないとみるか なかなか難しい問題です
まだまだマイクは勉強が足りない

 

2013/8/8「老人会は怖い」

今日 マイクが役員もする老人会の研修講演会で「認知症は治る」の話をお聞きした
コウノメソッドという名古屋の医師のシステムを 京都で整形外科医でありながら認知症専門だと言う深江医師が老人会相手に多くの治療改善の動画を交えて紹介された

強い作用の痴呆薬剤処方での副作用が問題になることが多いのに対して コウノメソッドは医師の指示するままのそれらをやめて フェルガード(米ぬかベース)とプロルバイン(ミミズベース)の投与を 家族による症状観測で投薬をコントロールすれば必ず改善するというものでした

その内容と効用はともあれ 認知症の方々のビフォアー・アフター改善具合をいっぱい見せられた
家族の安堵や感謝も本物ですが しかし本人達の外見的人間性を見れば見るほど複雑な気持ちです
あれほどになることは確かなことですしそれでも誰もが生きたい 死にたくはないとしか考えないのです
まして死ぬことを勧めるなんてことは誰にもできるはずがありません

ああなる前に 自分の死をメメントモリし 自分の死に方をdecernere(決める)モリべきなのですが 凡人はそんなことすることなく命永らえようとするに違いないのです
実に浅はかなみっともなく情けないことなのです

老人会の講演聴講者は 痴呆にはなっていないのは確かでしょうけれど 老人として世に役に立つ程ではなく つまり現役とは言えないどうしようもない老人がいっぱいなのです
それでも財力があり 家族に見守られている幸せな方ばかりには違いがありません
講演会の話を本当にしっかり理解していただいているのか 痴呆とかわりないご老人ばかりのようにマイクは見えました
いつも一人二人の老人を見てもあまり感じませんが これだけ多くの老人の集まりを見ると怖くなるくらいです
この人たちにこれまでマイクが提案してきた安楽死センターの話などをお聴きいただいて ご自身ならどうされるかご意見をお聞きしたくてなりません

終末期でなくとも 判断できるうちに早めの判断をしておくべきです
しかしそれでも当のご本人に 偉大なホーキングと比べようもない普通のご老人たちに 安楽死をお勧めできるでしょうか
勧めたいとは思いながら マイクにはまだまだお勧めできません
まだまだ勉強が足りません

 

2013/9/7「死は老人の責務」

昨日の初めに書き込み紹介した「<達者な死に方>練習帖 賢人達の養生法を学ぶ」帯津良一 文春新書 を読んでいると 生死は一体 区別がないとあった

確かに 人の体は生きた細胞と死んだ細胞からなっている
死んだも同然の人間もいれば 死して名を残す賢人もいる

ウンチ1gの中には一兆この細菌がいるという
80%
が水分で 残る20%のうち3分の1が食べカス 3分の1が生きた腸内細菌 3分の1 がはがれた腸粘膜
人と細菌は皮膚など多くで共生している
細菌レベルでもそうなのに 多くの生き物と共生していることを忘れがちです
もっと忘れてはいけないのは 人と人の共生です
身近な人どころか遠くの人とも
しかも生きている人同士ではなく 死んだ人とも そればかりかこれから生まれる人とも

そればかりか 生まれてそして死を繰り返さねば 生が生まれないことは生命の摂理となっています
こう考えると 老人の死は摂理であり 老人の責務と言うべきなのです

老人は死して当たり前 いつかは積極的に死んでこそ宇宙の摂理に適うのです
延命や長寿願望が当たり前のような時代になって 死を隠蔽しようとする
隠して語らずはいつの世もしてはならない醜いことなのです
黙して語らず位は美しいこともあるでしょうが メメント・モリを忘れてはなりません

 

2013/9/11「投入センターにならないように」

2012年度の医療費が 38兆円 一人30万円を超えたと大見出しの記事
年々増える様子がグラフで示しているのですが 本気でこれを本気で脅威と感じている人がいるのかどうか 能天気なニッポン人としか思えません
老人が増え 入院が増えた所為なのです

老人は 「姥捨て山」や「投げ入れ寺」に捨てられたりする時代が直ぐ先に見えているように思い マイクはこのページで無責任に見えるかもしれませんが 「楽しい死」や「終末期安楽死センター」などの考えに至りました

投入寺に 昔の遊女などが 情死・自殺・私刑死・病死などで捨てられたと 次の本にありました


「遊女の知恵」中野榮三 雄山閣 (2003/07)
江戸文学の多くが遊里を舞台に描かれているように、遊里は江戸庶民文化の繁栄にも大きな影響を与えた。遊女の歴史から遊里の制度と掟、心中立、始末紙と用心紙、下刈り、偽交、さらには手練手管の数々まで。不遇な境遇にありながらも力強く生きる遊女の生活と、生き抜くためのしたたかな知恵を詳細に描き出す。

安楽死センターも 投入寺も 社会に必要があれば自然発生するのです
とは言え投入寺は 死んでからで そうならないように 終末期センターを急いで立ち上げなければなりません

 

2013/9/15「みのもんたも責務を悟っている」

みのもんた(69)は 次男(31)日本テレビ社員が 他人のキャッシュカードで現金を引き出そうとした(窃盗未遂容疑)逮捕事件で TBSに「報道番組への出演を自粛したい」と伝え 同時には進退伺も出したという
その決断に 細川ガラシャの辞世の句があったという
『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ』

出演自粛ではなく 死んで償いをしようというのか そうは見えない
記者会見で見せた薄笑いは 彼ばかりではない人間一般の不完全さを示しているようで仕方がない

3000円の年会費で12万人の尊厳死協会登録がある
ガン・エイズのホスピスは100あるが 3045床しか作られてしかいない
3億の出演料をもらっている彼なら 尊厳死協会への寄付や ガンに限らない終末期ホスピスや 安楽死センター設立の広報への理解を得られるかもしれません
実践を急ぎましょう

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2013/9/18「マイクの青春は終わりに」

今朝のラジオ深夜便〔明日へのことば〕は〔戦争・平和インタビュー〕で 「加害者の痛みを知ることで被害者と向き合える」NPO法人ブリッジ・フォー・ピース 代表 神 直子さんのお話しでした(H25.8.17の再放送)
戦争被害を受けて 日本人を見たくないというフィリッピン人がいることを知った若い彼女が 日本の元憲兵などからのインダヴューをして届けている
新潟の元兵士が過去のことで悩んでいると知ったことで 使命感が生まれた
双方のわだかまりを解きほぐすことの大事さを一杯語っていた

老人は心に罪を背負ったまま死ねないのです
マイクは この間の東京ダンス公演の後 これが最後かも知れないと 入社一年目に入り浸ったスナックのママさんのところを訪問しようとしました
7歳上の元マイクの会社の看護婦長をしていたママさんと 若気の至りで関係を深めた
翌年に転勤になり精算して関係は終わったが 会社の先輩である旦那との不倫という罪は消えない
歳が歳なので 今回の状況を逃せば生きているうちに会えないと思い 公演の翌日の訪問を決めた
夫は亡くなり 本人は痴呆になっていた
家の前まで行ったが 家族から会わない方が良いと言われた

マイクの青春はこれで終わりだとつくづく思った
まだ色々未練がある青春の思い出を いつまでも持ち続けるのは確かにみっともない
また80歳になれば痴呆になる可能性を人ごとではないと実感した

この程度のことは人生でまだまだ色々有り 罪滅ぼしをしなければならないような事件は誰にでもいっぱいある
マイクは今回何もできなかったが やれるうちにやっておかなければ やり残すしかない歳になってしまっているのです

ブリッジ・フォー・ピースの神直子さんは 日本とフィリッピンのため そして夫々の方たちの心の開放を手伝われている
そのような他人のためでなくとも 自分のために 生きて元気なうちに懺悔と罪滅ぼしを急ぐべきです

 

2013/10/19「死は美しい責務と思え」

楽しい死を体験しただけで もう死んでもいいと思える人は確かに少ないでしょう
しかし哲学者須原は信じられないくらい能天気で 悔いも未練もなく強気で死ねる方法を心理的に分析把握しているのです

マイクにはそのような能力もなく 未練がましくギリギリまで生きる筈ですが 終末期にはそのような未練を捨てるべきことを悟っています
終末期ではなくとも 楢山節考にある如く70歳になると姥捨て山に行くべきなのです
70歳ではまだまだ元気で 痴呆になる前に死ぬためなら80歳でいいのかもしれません
しかし終末期と自己判断できる時期になったら 老人は死に支度をすべきなのです

マイクが「楽しい死」を考えながら 次にカテゴリー「老人の責務」を考えなければならないと思い立ったのは 「老人には死ぬべき責務」があることを悟り知ったからです
悔いや未練を捨てがたいのは凡人の情けなさではありますが 老人として最後くらいは凡人を懺悔し 生まれ来たことを感謝し 最後に罪滅ぼしを兼ねて全ての老人は 死ぬことを責務とすべきなのです

楢山節考のように老人はそれを定めと自覚することで幸せな最後を保証されるでしょう
死は最後の美しい責務なのです

 

2013/10/20「美しい老人の責務」

老人の責務も 美しい責務という言葉で済ませられるか マイクはこれからも考えなければなりません

生きているうちに罪滅ぼしをしなければならないと言う未練がましさが 老人の残りのあるべき姿を考えさせ その準備を覚悟させ そうすることが美しく死に逝く糧になるのだろうと信じています
その覚悟で 死に際を自分でデザインし 美しく死ぬ準備をしたいものです
メメント・モリはそのことの為なのです

補陀落渡海豪華客船に 健康保険で乗船できるのは それまでに美しく人生を罪滅ぼしで精算し 満足して自動自死支援装置のスイッチを押す覚悟のできる老人だけです
そのような判定が簡単ではなく マニアル化・法制化できなければなりませんが 実例を重ねることで何れは実現するでしょう

マイクが果たして許可されるかどうかは今は判りませんが それに向けて老人修行精進を勤めたいと思っています

 

2013/11/18「現実は迫り来る 金次第の最後」


今 ABCテレビの「たけしのTVタックル」で「病院たらい回しの現実 介護施設42万人待ち!!老人だらけの㊙診療所 怪しい・・・患者紹介商売」を ガンガン討論している

厚労省の金回りの限界打破のために 次々と医療施策が変わり 弱者が苦しみ 悪者が微笑む その現実をあからさまにする
病院と診療所の格差
金持ち老人ホームと貧乏人も入れない特養の格差
どれも金のかかる老人を厄介者としながら 金儲けの手段とするしかない現実

「知らないとアブナイ」を訴えながら どうしようもないことを自覚せよと言っているようでもあります

老人が早く死ぬことは美しく好ましく 世の中にとってこれしかないのですが かといって誰が先にそうすべきかは誰も言えないし誰もそうしない

TVタックルで「安楽死」や「楽しい死」を討論する日が近からんと願いながら そしてこれしか解決策はないと益々信ずるようになります
間違いなく死は責務なのです

 

2013/11/19「自ら死刑台に向かうべきか」

今日は現代アートのギャラリー16で 京都芸大の4回生だが 期待できる作家谷原菜摘子に巡り合い 衝動的に小さな作品を買った
次に見たKUNSTでは 西崎志帆の「体内を意識する」を楽しんだ

次の はねうさぎ では またまた既に期待されて 東京アートコンプレックスセンター専属になっている精華大院卒したばかりの 川崎瞳の「灰色の日常」に接して興奮した

フライヤーにある指虫達のペン画で 生活的・社会的画面に気持ち悪いほど しかし比喩的で楽しく これは指虫が這い回り自分を食い散らすという「突然的自己破壊計画」
びっくりしたのは 初めての立体作品という「4っの死刑台」シリーズの初作品「死の価値」です

プレートには「死は個人が所有する生き方の器である。よってその価値は誰にも欺くことはできない。」とあった
とても若い女の子とは思えないセリフだ
死刑台とは 強制的に訪れる死そのものを意味する

欲しい作品もあったが我慢する
メメント・モリをする素晴らしい3人のアーテストに今日は巡り合えた

 

2013/11/23「その他の方に楽しい・・・」

老人や身障者に接したり 同じく年老いたり腰の抜けた散歩中のペットを街中で見て どう見ても生きる価値がないのではと思われることが追々ある

そしてなんと不遜なマイクだと直ぐに感ずる
万物の命を尊厳しなければならないと知りながら 自分なら死んだほうがましだと考えてしまう
そのように死を自己決定できるのを 人間尊厳の権利だと思ってしまう
しかし他人に そして動物や虫にまでそのような責務を強制できるはずがないと恥ずかしい思いになる

尊厳死や安楽死の倫理的な限界は現実と理想の狭間で揺れるばかりで 定まるものではありません
しかし定めないといけない現実に迫られる時が必ずきます
その時のために事例を積み重ねるしかないのですが それを纏め議論し整理することは専門の研究者にしかできません

安楽死学会や 宗教界がなされていると思いますが 凡人で やがて来る日の近いマイクなどにはそれを待つ余裕がないはずです
低福利高齢社会で老人の悲惨な自死が 新聞に多く見られるようになってからでないと 「楽しい死」を考えてはならないのかも知れません

しかしもう直ぐ 厚労省の予測通り グラフの「その他の方」は どこでどのような死に方をするべきか厚労省もも分からないと言ってのけるように 自決で自死するしかないのです
そのようなその他の方には せめて「楽しい死」を自己決定で選べるようになるべきです
マイクは 自分で考え自分で実行するしかないのです

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2013/11/26「人ごとでない死を・・・」

今朝の京都新聞の「暮らし」のページに いのち見つめてBー比良を望む病院から 堀泰祐(滋賀県立成人病センター緩和ケア科長)の連載で 『「早く死なせて」から すべてを人にゆだねて』と題したエッセイがある


ガンで死にかけたご婦人が 人に役立つことを生きがいにしていた自分にはもう生き甲斐がなく 早く死なせてと鎮痛剤をも拒んだという
しかし遠方から娘が世話に来て 緩和治療を受け入れると「今は助けてもらってもいいのよ」と言うようになり 自分の全てを人にゆだねてもよいという価値観に逆転したとある

その方は「私には愛する家族や 良くしてくれる医者や看護婦がいます こんな幸せなことはないです」と言う
また 「何もできない自分を許し受け入れることができたのだ」と著者は結論しています

しかし 誰でもそうあるとか そうできるものではありません
そのような理想を夢とするのは当たり前ですが そのように幸せな方はほんの少しである現実を自覚し 自身の心の準備だけではなく 社会を現実に対応させるべく 先ずは終末期に近い我々老人が 運動するなり実践して見せる必要があります

幸せな人ほどそのように考える責務があるのではないかと マイクは思うばかりです
なにも実践できませんマイクには まだまだ人ごとなのです

 

2013/11/27「ダライラマに応えるのは日本人」

24日のダライラマ京都講演聴講の応募抽選漏れでがっかりしていたマイクです
そのダライラマは 参議院会館で議員数十人にチベット文化の保護を訴え 中国政府に抗議するチベット族の焼身自殺に関し「彼らは苦境に有り 自殺を選んだ。中国政府は何が原因なのか調べるべきだ」と主張し 日本に支援を求めた

赤穂浪士や特攻隊 そして赤軍派で世界に知れ渡るテロ先進国日本に理解を求めている
苦境にあるテロリストの苦境を理解できないとすれば 最早人で無しであり 日本人ではないのです


同じように苦境である終末期老境も 誰からも理解されないとしたら悲しい
そのような老人が日本に多数現れるのです
その老人の一部が 世直しテロをすべく想いを募らせているくらい純真であることは稀ではない筈です
それがどのような内容なのかは別として それを受け止め理解し支援指導するセンターが 安楽死センターの一部の機能として必要ではないかとマイクはずっと考えています

世直しを実践できるのは 将来の生活ある若者には無理でも 老人の最後に命をかけてでもしたいと思うのがマイクです
それでも老人にそのようなことが簡単に一人で出来るわけでもなく センターが指導しなければ 何も起こらないか 或いは暴走するようなことになります

世直し仕掛け人ビジネスは 若者に任すのではなく 終末期老人支援センターで より社会的理解を受け 正しく公然で安全に実践されるように思います
これもまた これこそ老人の使命であり責務と考えるマイクです

罪深い老人の責務として 正当で穏やかなテロはあるか
「楽しい死」は「老人の責務」なしには考えられないかも知れません

2013/11/28「安楽死は飼い犬が先行すれば・・」

飼い犬のシニア率が5割だという
腰の抜けた犬の散歩や痴呆・盲目で苦労する飼い主のための 年間預かり36万円の老犬ホームが繁盛しているとか
改正動物愛護管理法が平成2591日より施行され 終生飼養が法律化された
それでも老(人)老(犬)介護などで面倒見きれず手放さざるを得ない人が利用する

そのような中で現実は 手放すだけでも罪悪感を持ちながらも 最後の安楽死が一般化していかざるを得ないのです
決して獣扱いではなく 家族として人と同じ気持ちであっても そうするしかないことを飼い犬の世界で現実に起こっている

飼い犬は 人の世界を先行しているのかも知れません
飼い犬への感覚が 人の場合にも当たり前になるのではないかと思ってしまいます
より現実的には 飼い犬より恵まれていない弱者が一杯の人間社会なのです
安楽死への社会的認識は ペットの現実から自然発生するかもしれません

 

2013/11/29「老人差別の前に 自決しか」

今夜のNHKニュースウオッチ9は 「藤子・F・不二雄が未来に託した思いとは」として 短編SFの「定年退食」を取り上げていた
この短編集に 「定年退食」がある
人口増と財政難による食糧危機で 56歳の退職の後 75歳で食を絶たれるという社会を予見した作品です
この作品は このブログ2013/4/2「須原の自死は責務を忘れている」で 安楽死制度化運動の金田さんから紹介いただいたことを書き込んでいます

「老年期の終わり」という作品もあるようです

また 2012/3/10「70歳強制自死法まで8年」で 同じような小説が現れたことを紹介しました
『七十歳死亡法案、可決』垣谷美雨 幻冬舎


「定年退食」は 1973年(昭和48 年)「ビッグコミックオリジナル」95日号に掲載ですから 40年前なのです
2013/11/25
「ソイレント・グリーンの予言」で紹介した西暦2022年の予言も 40年前のものです
70歳を超えると 30日以内に死ななければならないと言う強制自死法案が可決されるのも2020年なのです

予見が現実になるとの危機感を NHK番組から感じた人はどれくらいなのでしょう
多くの人に見て感じて欲しいものですが そのような願望をここで書き込んでいるだけではダメなのです・・・

 

2013/11/30「獣の死とは違う死を」

前の前のブログに書き込んだ「定年退食」の藤子・F・不二雄短編SFには 「ミノタウロスの皿」というのもあって 牛が支配する惑星で 人が家畜として食料にもなっている社会が描かれている
猿の惑星の牛版です
人が牛を食い牛が人を食うと同じように 人が人を食わざるを得ないという事まで想定した映画「ソイレント・グリーン」や小説「ブラックライダー」もそう違いはない
   冷凍ひよ子を無神経に
今 冷凍ひよこが家畜などの餌にペットショップや通販で売られている
人間味あふれる動物愛護運動も盛んな今は 心豊かで飽食でいられる社会ですが 人は簡単に獣に戻ることも 環境によってはありうるでしょう
しかし人はどのような環境になろうとも 人として死にたい
それくらいのモラルを持ち続けるために メメント・モリをもっと・・・

 

2013/12/2「野良犬の安楽死は?」

フランス映画で 尊厳死をテーマにした「不治の病に自分の最後の日を決めようとする母親と出所したばかりの一人息子  永遠の別れに直面した母と息子の絆を静かな眼差しで描いた感動ドラマ」『母の身終い』が11月31日から公開になった

フランスでは安楽死が法制化されていないのですが 安楽死を望む母と息子の葛藤を描いている

安楽死が法制化されているオランダやスイスでは現実の社会現象であるのに フランスや日本はこれからどのように現実化してゆくのでしょうか
終末期ではなく自死一般の安楽死となると今世紀には有り得ないことのように思います
終末期とか 認知症や障害者とか 動物とかでの一般化・社会容認なくして進まない
ペットの安楽死などがこれからどう取り上げられてゆくのかなども分からないようでは 安楽死の社会的構築など考えるだけ無駄かもしれません
先ずは野犬の安楽死の是非など クールに議論することから始めるのもステップとして大事ではないでしょうか
野良犬の尊厳死はあっても 野良犬が安楽死を意思表示することがないので 参考にならないのかも知れません

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2013/12/3「能天気なプラス思考は日本を救うか」

今日は マイクの長年のボランティア活動を表彰するということで 京都エコロジーセンターでの仲間十数人を含む71人が産業会館シルクホールの式典に参加しました
中坊公平氏亡き後堀場雅夫89歳を会長とする教育委員会担当の生涯学習推進事業としての表彰です
設立20周年記念シンポもあり 700人ホールは満席でした
テーマ「プラス思考で考える!夢ある京都の少子高齢社会」
「堀場雅夫会長(株式会社堀場製作所最高顧問)が 養老孟司氏(解剖学者,京都国際マンガミュージアム館長)と奥野史子氏(スポーツコメンテーター,京都市教育委員)をゲストに迎え 門川大作京都市長と上記をテーマに 少子化・長寿化を新たなまちづくりのチャンスと捉え あらゆる世代の市民にとって居心地よく いきいきと暮らすことができる京都のまちの未来について語り合います」あった
確かに面白い冗談が飛び交う面白い高齢化社会をプラス思考で語り合っていた
しかしこんな老人ばかりの京都なら こんなことを談義する必要はない
プラス思考とは 現実を見ないで 自分たちのハッピーばかりを見つめ合おうという自己中なものです
ピンピンコロリを願望とするのは日本人だけで 死の現実を見ようとしない彼らは 他人のことを見ないばかりか自分の死をもメメント・モリしない
そんな日本人代表の京都らしいシンポでした フォームの始まり

 

 

2013/12/14「死をVIVAと思うしかない」

暫らく書き込みがなかったのは 静岡でのダンス公演の後 「マイクの腰痛日記ブログ」にあるように 腰痛が次第にきつくなり 歩くのも困難になって滅入っていたからです
それでも昨夜は 何とか「楽しい死」を探そうとする気持ちには変わりなく 「VIVA DEATH」なるタイトルに惹かれ 鴎座 クレンズド・プロジェクト04の 京都公演を観た
サラ・ケイン、不在のテキストによるパフォーマンス。
忘却の拒絶。詩人の言葉が刻み付つけられる。それは、世界を汚す行為だ。
サラ・ケインの「戦争三部作」(第一部『Blasted』第二部『Cleansed』[『洗い清められ』訳/近藤弘幸])の第三部の仮題。
ケインはタイトル『Viva Death』だけを遺した。唯一の手がかりは"Nuclear Devastation"(「核戦争の惨劇」「原子力発電所の事故」)。
クレンズド・プロジェクト完結編。
川口智子の幻想がつくる、サラ・ケイン最後の作品。


イギリス人劇作家サラ・ケインの作品を扱う演劇パフォーマンスで 知り合いのアーティスト辻田恭子さんの次女暁さんが大役をなされている
1999
28歳という若さで鬱病により自ら死を選んだ彼女の戯曲は世界中で盛んに上演されていて 昨春イギリスで演劇祭・国際学会が開催された
「愛すること」とはどういうことなのか ケインは世界と対峙するために このシンプルな問いを投げかけ 死をVIVAと捉えようとしてタイトルだけを残して自死したのではないか
美しいパフォーマンス作品でしたが マイクの理解を超えていた
やっぱり死をメメント・モリすることはできても理解はできない
簡単ではないから人々を苦しめる
死は苦しくとも思うしかないのでしょうか

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2014/1/2「死には責務が伴うことを」

新年を迎えて 明るく楽しい話題で始めたいと思いつつ 依存症の酒に浸るばかりで何も思いつきません
皆様にはご健勝で充実した初春をお迎えなされたこととお慶び申し上げます

余り相応しくないのですが この本が目につきました
「黒い海の記憶――いま、死者の語りを聞くこと」山形 孝夫 岩波書店 (2013/4/13)

目の前で津波に呑まれていった母の、最後の呼びかけ――。東日本大震災で肉親を、友を亡くした人びとの悲しみに、宗教はどう向き合うのか。海底に沈む死者と生者を取り結ぶ心の通路は、死者の無念と向き合い、死者を思い悲しむという「祈り」によって開かれる。宗教の根源を考察する思索的エッセイ。

死者は生きている
そればかりか死者は 生きていた時よりも私たちの近くに寄り添っている
宗教人類学者が「生きている死者」との交わりを哭くことで 新しき出会いの悦びにまでなると著者は説いている

誰もが残された人たちに見守られ 斯様に美しい死を迎えられたらと思う
他人の死が例え悲しい死であったとしても 生き残った学者さんは悦びとして理解できるのです
そのようなクールさを読者にも求めている

マイクにはそのようなクールさは相応しくありません
誰にでもできることではありません
より現実的に 99%の方々の現実的な死を 本人だけでも美しく楽しいものにしたいと思います
しかし確かに死は本人だけの個人的なものではなく 残されたものへの責務を伴う大切な事業なのです
「楽しい死」を考える上で 避けられない責務だということを 新年を迎えて心しようと思いました

2014/1/3「良寛に習えるか?」

良寛は 生涯の終わりにあたって 30年の孤独な五合庵暮らしを断念し 木村家の離れへ止宿した
2年ばかりして新潟三条の大地震に遭い この時 親しい付き合いの山田杜皐(とこう)宛ての消息に 「うちつけにしなば(だしぬけに死んだら 却って良かったろうに)  しなずて ながらへて  かかるうきめを見るが は(わ)びしさ」と詠い 続いて「しかし災難に逢(ふ)時節には災難に逢(ふ)がよく候  死ぬ時節には死ぬがよく候  是はこれ災難をのがるる妙法にて候 かしこ 良寛」とある

「死の定めの時が迫ってくれば 潔く死ぬがよい」と親しい仲間だからこそ漏らす
このような死生観だからこそ 子供と遊び 漢詩や歌よみ 托鉢座禅 酒も煙草も ことごとく遊戯(ゆげ)三昧の行いだった

徒に未練がましく生きることよりも 古人は死を悟り自らを決めている
しかし今人には難しいと思います
生きながらえ苦しむことより 目の前にもっと「楽しい死」のあることを示してもらえなければ自分の道を選べません
しかし知ったからには普通の人なら その道を選ぶのが老人の責務だと言う位は 理解し悟ることが出来るでしょう
良寛にはなれませんが

フォームの始まり

フォームの終わり

 

2014/1/7「献体という最後にもサポートが」

献体希望の高齢者増える 死の迎え方、自ら選ぶ」「家族に迷惑掛けない」と題する最近の新聞記事に 実態が載っている
「篤志解剖全国連合会」(東京)の全国約100大学の調査では 1970年度から献体登録者は今年3月末で累計25万人を超える
現在の登録者は推定約15万人で 毎年3500人前後が解剖されているが 主に高齢者からなる5千人前後の新規登録によって年々増加

親族含めた生前同意登録で 引き取り後火葬して1〜2年後に親族に返されると言う
葬式も墓も要らない直葬希望の老人がどんどん増えているのです
しかしそれを望んでもそうなることはほんの少しの方々で 殆どは従来通りの形式通りの始末がされるのです

献体精神は 老人の責務として美しいものです
それをサポートする機関があるように もっと色々の社会貢献をしたい老人のためのサポートもあっていいと思います
終末期安楽死センターでは そのような高貴な方々の色々の思いを叶えるお手伝いをするのが使命
なのです


2014/1/10「医療介護はビジネスでいいのか」

日本の精神病院の異常を取り上げた本の紹介をこのブログでも取り上げています

2012/10/18
「老人が経済システムを活性化」で 「なぜ日本は、精神科病院の数が世界一なのか」織田淳太郎 宝島社 を

2014/1/3
「大麻やLSDやパコの洞窟」で 『潜入 閉鎖病棟「安心・安全」監視社会の精神病院』柳田勝英 現代書館 (2012/01) を紹介した

今読んでいる本は 1970年の新聞連載「ルポ・精神病棟」大熊一夫 朝日新聞社 の著者が 強い思いで書いたものです

「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」大熊一夫 岩波書店 (2009/10/7)

この国の精神保健の明日を描くために。精神保健最先進国イタリアからの渾身のルポと、日本への提言。第1回フランコ・バザーリア賞受賞(2008)記念作品。

日本の医療の悪の根源が 自由主義ビジネスの武見会長にあったばかりか 今も変わらぬ恥ずかしい日本人の汚れた心にあることを思い知らされる
イタリアは2000年までに 全ての精神病院を閉じて 全土に公的地域精神保健サービス網を敷いた
日本は ビジネスとしての私立病院の家畜患者の如き私設強制収容所の悪徳を擁護してきた
その政治の怠慢に憤るばかりでなく その流れが今も続き 認知症などの福祉事業と混同した悲惨な実態に向かっている現実を嘆いている

マイクが 健康保険で最期を迎える安楽死センターを実現するには ワタミなどに任せるべきなどと安易に考えているとしたら大きな間違いになる可能性を 本書は示唆するものです
西欧には家庭や地域を大事にする文化があります
それを失ってしまった個人・自由主義日本にはビジネスに任すしかないのが現実です

国が在宅医療・介護を唱えるのは金もなく面倒もしたくないからで 私立病院・介護任せにするだけでは イタリアのようなシステムは生まれません

安楽死センターが 私設でなく公的なものからスタートするには 庶民の間に相当な福祉哲学が育たなければなりません
エコノミックアニマルが 西洋人のように哲学することから学ばなければなりません
マイクは終末期の死だけを考えていますが もっと広く日本人の失った倫理哲学の復興を考えずして済まされないのだということを これからも肝に銘じようと思います

 

2014/1/12「たかぎクリニックは凄い」

一昨日に紹介した「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」大熊一夫 岩波書店 (2009/10/7) には マイクのすぐ近くで精神保健を在宅ケアする優れた団体があることを紹介している

その「ACT-K 精神疾患 訪問型サービス」のyoutubeもある
http://www.youtube.com/watch?v=0DWpfgaShRc
2004年、日本初の在宅ケア専門の精神科医療サービスが、京都で誕生した。「こころ­の病」をもつ人たちをこれまでのように病院に閉じ込めておくのではなく、わが家という­­生活の場で、治療のみならず、リハビリテーション、社会復帰支援、就労支援まで一貫­して行う、いわば精神科の「先端医療」だ。このサービスで彼ら彼女らが手にすることが­­きるのは「希望」

本当の意味での患者本位とは、患者の自分の意思で生活する権利、 自由に行動する権利を保証した上で 365日24時間、患者を見守ることなのだろう。

精神障害者に対し、多職種で医療と福祉の一体化した訪問による生活支援を行う「ACT­(包括型地域生活支援)」。その活動を京都で展開する実践。


〈高木俊介〉1957年生まれ。京都大学医学部卒業。光愛病院(高槻市)、京大病院精­神科、ウエノ診療所を経て、たかぎクリニックを開設。ACT-Kを主宰し、精神科在宅­­医療に取り組む。『精神医療』編集委員。編書に「ひきこもり」「ACT‐Kの挑戦」­「こころの医療 宅配便」

参考書籍:高木 俊介
■ACT‐K
の挑戦―ACTがひらく精神医療・福祉の未来 (Psycho Critique)
 
http://amzn.to/jLXf53
こころの医療 宅配便: 高木 俊介
 
http://amzn.to/jVUsF8
たかぎクリニック
 京都府京都市中京区御幸町通竹屋町上る毘沙門町557-2 ACT-Kビル3F
 電話:075-254-3077  ACT-IPSセンター 
http://bit.ly/ivl8Sh

公益財団法人 京都新聞社会福祉事業団のHPにもっと詳しい
http://www.kyoto-np.co.jp/fukushi/column/hito/110510.html

精神障害者の福祉のために ビジネス医療や放任行政に我慢できず 地域個別対応活動を実践するこんな凄い人達がいるのです
精神保健の問題だけでなく 老人医療や痴呆介護などの問題も 私設老人医療介護施設のビジネスに任せるのではなく 地域や家族の問題としてそれを公的にサポートするという考え方がこれからもっと定着拡大すべきなのです

終末期老人センターも ワタミなどのビジネスにしてはならないのですが このような考え方がこの日本に定着するのを待ってはいられないとの思いから 先ずは何が何でもとマイクは思ってしまいました
精神性の各種依存症や痴呆症をグループケアする団体など 沢山京都にもあり そのような団体のお話しを何度もお聴しています
老人の終末をホスピスする地域団体くらいはもっと作りやすい筈ですが 公的支援を受けられるような社会的背景がいるのかもしれません
そうなれば安楽死センターが 保険で賄えられるようになるのですが そうなる前には私設の集える場を作ることから誰かが始めなければなりません

2014/1/13「自己中の悪徳をサポートしてはならない」

私設強制収容所 悪徳病院 牧畜業者 と呼ばれる精神病棟が蔓延ること促進してきた日本の行政
安楽死センターも麻生副総理の思いを実現するために マイクの案通りに健保で運営するようになれば 精神病棟の隔離のようになる可能性があるのです
弱者排除隔離の心は 豊かなものたちが多数を占める多数決民主主義社会には許された行政文化なのです

終末期ならずとも老人排除 障害者差別は社会の風習なのです
それも地域からも 家族からも排除差別されるのです
公的責任に委ねてしまうことでしか救いようがないと思い込んでしまう地域や家族を容認してしまっています
精神病棟に社会的入院するという 日本の恥が今も日本の現実なのです

お上はそのような面倒を税金で処理するため ビジネスチャンスを委託者にたっぷり与えるのです
そのため ACTやイタリアの公的地域精神保健サービス網の倍のコストになることを大熊の本は詳細に述べている
儲け過ぎが悪徳を育てるのです

このようなエコノミックアニマルには 最早家族や近隣の弱者を労わり助けようという倫理マインドがなくなっているのです

自らの死を想いたくないと同じように 他人の苦労を見ないで済まそうとするのが楽しく賢い自己中な生き方なのだと社会は向かっている
勿論 ACTのような方々が必ずいる
そのような方々をもっと知りサポートする社会になるように 出来ることはあるはずです

安楽死センターもワタミに任せる前に ACTが 精神保健のジャンルを広めてやってほしいものだと思いました

 

2014/1/15「思うようには死ねない」

マイクは昨日の石門心学月例勉強会で 王陽明研究者安岡正篤(まさひろ)の「五計」という思想を知った
人生に五計あるべきで 生計・身計・家計でその最後は「老計」の後の「死計」と言い 死を計るべしと言う
「いかに生くべきか 東洋倫理概論」安岡正篤 致知出版社 (2011/9/16)

特に人間の一生を早年、中年、晩年に分け、それぞれの眼目となるべき倫理を志尚、敬義、立命に絞って人間の生き方を追求。
その内容は4部作の先駆けとして安岡教学を整理するものであり、 基本中の基本となる書でもあります。 30代に足を踏み入れたばかりの安岡師が、 青年子弟の教育養成に尽くすことを己の任とされた 情熱と息吹が溢れる味わいある一書。


死計という言葉に魅力を感じて調べると 凄い人!!知古嶋芳琉のHPに
http://www1.bbiq.jp/chikoshima.com/gokei/shisei-wa-chuuya-no-kotowari.html
辿り着きましたが「死・生は天にすっかり任せるべきで 別に何も畏れることはない」という程度のもののようです
死を計るとは 死を慮る 弁える メメント・モリと同じことで マイクには痺れる言葉ですし マイクは死を弁えて「私の自死道」を探らんとしているそのものです

政財界にも活躍したその陽明学者の死がどういうものであったはかなり気になる WIKIPEDIAには
当時銀座のバーのマダムであった細木数子と再婚の約束を交わしたが、当時85歳で、認知症の症状があったと言われ、40歳近く歳の離れた女性との再婚であり、実際の結婚生活がほとんどなかったことから安岡家の親族が猛反対したが、細木が安岡と交わしたとされる「結婚誓約書」なるものを元に、婚姻届を提出し、受理されたことで、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てた。その翌月安岡は他界。調停は婚姻はなかったこととして、細木が初七日で戸籍を抜く事(結婚生活は、事実上無し)で決着した。
とある

なかなか思うようには死ねないのです

 

2014/1/28「明日ママがいない」

日テレ番組「明日、ママがいない」の第二話を見た
子供向けには如何かと言う所があるにしても 半沢直樹の子役芦田愛奈版かと思われほど大人には感動的だ
赤ちゃんポストの病院などから放映中止を求められ社会問題化している
現実の養護施設とかけ離れているかもしれないし 預けられた子供たちへの蔑視が尋常でない
里親に引き取らせるためにペットショップの犬のように扱われる
それにあだ名ポストの芦田は刃向う
フィクションだからでは済まないかもしれないが 里親制度の実態を見ないで済ますべきものではない
9話まで続く
アメリカでは身障者を預かる里親も多い
日本の実態は赤ちゃんポストも非難される
赤ちゃんポストと言う優れた事業を行う関係者からの隠蔽要望に違和感がある
放送権の逸脱なのかもしれないが これからの議論にこそ価値あるように思います

終末期の死の実態についても 老人ホームでの痴呆待遇や 精神病棟紛いの老人医療の実態を明らかにしなければ改善されません
それが出来ないようでは終末期センターが楽しい最期を迎える場所だと言うことを社会的に認められて実現することはできません

 

2014/1/30「責務としてマイクは酒の実証研究」

日テレ番組「明日、ママがいない」の第三話を見た
子供向けには如何かと言う所があるにしても 理性ある大人なら感動的で刺激的だ
強く生きる子供たちを見て涙しない人はいない筈だ
人生は様々で 都合で見ないで済ますことは出来るかもしれないが 見てからでないと理解し合えない
理解し合う困難を避けて通るよりも 理解し合い苦難して乗り越えるのが人類の道のりでしょう

苦難に耐えられないことを責めることは間違っているし 耐えられない子供たちや弱者を無視してはいけない
成人限定TVかも知れませんが 「楽しい死」をメメント・モリするべきと同じように 里子制度の知らざる実態をメメントする機会には違いない
見せる見る批判するだけで終わらないよう ディベートを日テレも養護施設協会もこれからの責務として欲しい

今日の新聞一面トップは 新万能細胞SPATのことですが アルコール依存症のマイクに勇気を与えるニュースです
細胞を弱酸に30分漬けることでリセットすることは マイクが四六時中やっています
アルコールは肝臓で酢酸に分解され 体中の細胞を弱酸でリセットしているのです
酸性度がどれくらいが最適かは多分ほろ酔いレベルだと思います
マイクのこれからの研究テーマにして 小保方晴子さんの実証研究を支援したいと思います

 

2014/2/3「現場の現実を知れば」

「介護現場は、なぜ辛いのか特養老人ホームの終わらない日常」本岡類 新潮社 (2009/05)

時間に追われ苛立つスタッフ、荒っぽい介護、低下するモラル。職員も入居者も、心をすり減らす24時間。ヘルパー2級を取得し、時給850円で働いた作家が実感した「老いの現場」の苦闘、高齢者の本音、垣間見える人生の断面、そして希望の可能性。人は介護を受けるために生きているのではなく、生きるために介護を受けるのだ。介護のいまを考え直すノンフィクション。

これまでマイクは楽しい終末期を真剣に考えてきたようでも 本当の終末期の実際をそんなに見聞きしていないことに何となく後ろめたさを感じてしまいます

そのマイクがこの介護の実態を体験ルポする本を読んで 介護する困難さと実態を一杯知ってしまった
耐えがたいウンチの処理や内部の葛藤には目を背けたくなることばかりでした

骨と皮になって精神病棟のような中では生きたいとは思えなくなるほど後味の悪い気持ちです
終末期の前に自己決定・自己責任で 尊厳的に安楽死すべきではないかと 宗教家でなく「欄」の小説家として自死を納得する寂聴の思いにマイクも納得する

社会的な影響の大きい寂聴や山折哲雄がどのような死を選ぶか 待ち遠しいし 終末期センターより ズバリ安楽死センターの必要を感じてしまいます
しかしそのセンターには もっと難しい現実が迫りくるであろうと思うと萎縮しそうです

 

一先ず終わりに

 

フォームの終わり

こんなことを考えてばかりいても中々進展しないことに焦りを感じ 2014.2.7から『楽しい死とは』と『老人の責務』を一先ず終わりにして 『心満たされて死にましょう』のカテゴリーで より実践的で具体的な計画を立てることにしました

こちらの方に専念し 一早い安楽死センターの実現に寄与したいものです

 

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