心いけいけ? こころ元気 心いきいき

 

私マイクの同級生のご主人の開業されている 福井市内の整形外科医院が毎年発行される文集に 私のエッセーを二度載せて頂いています

とても素敵な文集で 個人医がどうしてここまでの思いを持たれてなされておられるのか 実に不思議でご立派な事業をなされておられます

 先にこのHPの2010.5に 文集「和」第212009.10発行)の 「自分探しの絆」を転記しご紹介しましたが その十年前の101998.10発行)に載せて頂いたものをも 今回もそのまま転記いたします

 まだ現役で 定年近いサラリーマンが頂いたその年の文集のテーマ「こころ元気 心いきいき」に思いを纏めてみました

 前回に続き その内容についてはご笑読くださいませ

雑感色々のページに戻る   HPのトップページに戻る 文集は 1998.10発行 HPは 201.8登録

      http://www.yamauchi-seikei.jp/image/bunshu/BunshuVol10.jpg今回の第10号      http://www.yamauchi-seikei.jp/image/event/bunnshuu/21zu.gif第21号 自分探しの絆

心いけいけ? こころ元気 心いきいき

 

 「こころ元気 心いきいき」、分かっている様でなかなか自覚できない心の状態。自覚できないのは毎日の生活の中で、考えることの少ないことや、ストレスが多い所為だと思う。ゆとりのないことが習慣となり不感症となり、食べること稼ぐことを目的に、ただ生きて「いけいけ」で満足し、「こころのしあわせ」とは何かを忘れ、錯覚したり、或いはストレスを避けたり、自分で生きる目的を考えることから逃避しているからだと思う。

 最近考えてみた。私事、サラリーマンの生活について、ショックを受けたことを、ひとつふたつ。

 我暮らし、定年まで後三年と言うのに、いつまでも楽にならず、じっと手を見る。いや、ある時こんな数字が目につく。年間労働時間2000時間を割るこの頃という。ふと考える。一日の生活時間は68時間の睡眠と24時間の生理・家事時間があればいい。つまり一日10時間、年間3650時間。では残りが自由時間だ、ゆとりの「元気」時間。一年間は24x3568760時間もある。それから労働時間と生活時間を引くと、なんと「こころの元気」自由時間が3110時間もあるではないか。働いている時間より自由時間のほうが多いとは。実感との差に唖然とする

 これは意識の問題である。仕事優先の生活思想が根付いていて、自由時間への切り替えができないだけである。仕事あっての生活。仕事あっての僅かのゆとり。日本人サラリーマンの典型である。欧米人は三つを横並びにそれぞれを大切にする。生活の哲学の違い。思想の遅れ。自覚の問題であり、自分だけでもやれることだとつくづく思うのだが。

 もう一つ、数字にショックを受けた事を。あっという間にこの歳になる。これで良かったのか我人生、一度っきり。まだある人生どう生きる。時間がある。なんとかなる。そう思ってはみたが、では人生八〇年として、計算してみると、なんと25億秒。世の中にはこれくらいの資金25億円を毎日数えてにやにやしている人が大勢いるとおもう。しかし、一秒に一円の数え方では、数え終わった時に人生尽きてしまう計算になる。まして残りの人生となると、7億秒しかない。稼いでいる間に、数えている間に、使い切る間に、「元気、いきいき」を自覚する前に、命終わってしまいそう。

 しかし何か虚しい。近頃は、何かとバーチァアル。自分での実感を、頭で、目で、錯覚できるメディアや方法が揃っており、自分で実体感すること無く、自分で考える事なく、それで充分実感し、人生をお金で買い、安く体験し、満足できる。つまり錯覚。「いけいけ」だけでも「いきいき」を錯覚させる。

 この私もその類なのではないか。実は、「こころ元気」を求めて五〇才を超してから、体のため、老後の体作りに、フィットネスクラブに通いはじめた。初めは水泳、次はランニング、一年もするとフルマラソンを楽しみ、次はトライアスロン、そしてフリークライミングにも嵌り、エアロビクスもほとんど毎日。自由時間のほとんどを食い尽くすほどのやり過ぎが高じて次第に「いけいけ」になる。仕事での余裕のなさに加えて、自由時間でも余裕のなさを感じられ、「いきき」のつもりでやっているのに、ただの「いけいけ」なのか。やっぱりゆとりがあって、少しずつでも、やったなりの成果が感じられ、次の目標作りが楽しみであったやり始めの頃が何と言っても「生きき」だったと思うこの頃である。

 生き甲斐とはやはり「こころ元気」を求めることであり、人生の目標や、やっていることの目的を自覚できる状態をいうのであって、ただゆとりなく「いけいけ」で満足するようでは、得てして錯覚の世界に嵌ってしまうように思います。働き過ぎや、遊び過ぎや、稼ぎ過ぎや、浪費癖、いろんなやり過ぎ然り。ゆとりを作るために、時にはひとり孤独に考える時間や、何か次の新しい目標探しの時間を作り、場合によってはこれまでの「いけいけ」のひとつふたつを捨てるくらいにならなければならない。とは言うけれどこれがなかなか難しい。

こんな私ではありますが、やり過ぎが高じて、心の面ばかりでなく、体の面で最近は、やり過ぎによる膝の痛みが慢性化し、ぎっくり腰で痛いのも治らない。これくらいは我慢できるのですが、もともとの高血圧が限界値を越えるにいたり、心筋異常はもとより抱えているのですが、やや気に掛かり、これらの絡みからか、ストレス過多の所為か、右目が中心性網膜症、左耳が突発性難聴になる。少々酒が好きで、毎日のエアロビクスも止められず、ゆっくり、ゆとりを作って治さなければならないのに、それができない。「いけいけ」を断ち切ることの難しさを痛感する。アルコールも、エアロビクスにも、すでに依存症となっている。心の持ち方の甘さ。それが依存症の原因です。考えることからの逃避。我慢するより「いけいけ」。

 真摯な動機で初めて、真面目に熱中している色々なこと、働き過ぎや遊び過ぎ。動機は不純でも、一寸ならなんでもない色々なこと、汚職や不倫。それらが過ぎて依存症に陥るのは、「こころ元気」を求めながら、こころの弱さ」、「こころの甘さがあって、分かっていながら方向転換できないのでしょう。

 この度「こころ元気」について思いめぐらす機会を得て何と、「いきいき」のつもりの私が、ただの理性の甘い自分だと気が付くのです。そしてこんな私であることを止められない自分なのです。

 

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