私の解脱道 そろそろのお迎えに 自ら出向くスタイルとしての マイクの弁え

文末にはマイクの辞世の句

                2011.7.7  古人のパワーに戻る トップページに戻る

到頭こんなことを考える時が来てしまいました

老人マイクが最後の一里をどう歩むか

どのような最期を迎えることになるか あるがままの自然な死を受け入れるとするか 私情のままに思いを果たし 遂に死をも自ら選んで迎えるべきか

 

平均寿命まで後十年を切るようになったマイクは リタイアから今までの十年があっと言う間であったことを随分意識してしまって こんなことを考えてばかりいるこの頃です

相当焦っているのです

ヒトに死期は必ずあるが それが何時か知り悟ることのできないものであることに 神秘と不安を感じてしまいます

今が後何里塚なのかなどと 要らぬことは考えないようにするのが賢いのかもしれません

 

死に方をそろそろ考えるべきではないかとの思いを書き込んだ マイクのHP「私の自死道」とか 老人道シリーズを見た方々から 余計なことを考えない方がいいとか もっと否定的に馬鹿扱いにされることもありました

 

墓のことや遺産相続や葬式の段取り等の面倒臭いことよりも どんな音楽を聴きながら逝きたいか 誰に看取って貰えるかなどの それ位なら前向きに楽しみながら想像した方がいいように思うのですが その程度のことはマイクには余り本質的ではなく もっと大事なことがあるように思います

 

 

考えないのではなく 考えておくべきだと思います

お迎えが来た時には 身体も心も行動的でなくなっていて どうしても他人任せになってしまうのです

それも家族からだけでなく 金儲けのお客として医者からも勝手に都合よく死に方を決められてしまうのです

 

それにしても ヒトの死は成行きに任せるべきで 神の定めた運命に逆らうべきでないと言う人が殆どです

つまり考えるなと言う事です

それなら そのような方の考えに習って 死を考えないにしても そのような他人任せの運命から逃れ 自分で納得できるような迎え方が出来ないものでしょうか

成行きに任せるのはどう考えても 神の定めに従うと言う事とは違って 他人任せのように思います

 

 

ここで考えようとしているのは 最後の最後の死に方ではない筈です

それまでのもう暫くの生き方を 辛かったながい人生のままで終わるのではなく 最後だけでも幸せで楽な生き方を味わっておきたいという発想なのです

縛るものから離れて自由な生き方をしてみたいという願望をかなえられないか

それを解脱と言いい 煩悩からの解脱や苦悩から逃れることです

 

生きている限り ヒトとの係わりを避けられなく 煩悩の殆どはそこから広がって取り返しがつかないように広がる

凡人は他人と比較したり 自分だけはと思ってしまうところに煩悩の始まりがある

凡人が その根源を断つには一人で生きることでしかありません

 

それには 先ず自分を世間から隔離することでしょうか

世間の無責任な批判を受け付けないためには 出家や孤独に生きるしかありません

私の仙人道」「役の行者のこと」でのそのような憧れは マイクの厭世かぶれそのものの証しかもしれません

しかしそのような生き方は共生きしかできないヒトとなってしまったヒトとしては もう無理なのです

それなら世間から離れ ひとりで生きることを諦めるとするなら 如何したら他人の見方から逃れ 孤独でいられるのでしょうか

 

それにはやっぱり人以上に自らの死を意識し 自分で判断することでしかありません

しかし死を意識し 残された時間を意識するばかりでは無用な心配が増えるだけで 実質的な解決は何もない

残された時間とは関係なしに 或いは残された時間を無視して生きる意味が果たしてあるのか

ヒトは残された時間を暗黙的に自覚または自己設定して生きていくしかないのです

それをしないで 成るがままに生きるのでは 活きているとは言えない位で マイクにはそんな生き方は向いていない

 

 

マイクにはとことん考えたいのですが 出来ることなら時間から解放されるような そんな方法があるのではと楽観的に考えています

それが何かはこれから考えることとしますが そう簡単でないことは予感されます

死期を悟る必要もなく 死が至ることをも忘れられるのですから まるで不老長寿を得たと錯覚するようなことではないでしょうか

ひょっとすると 痴呆や老衰で 廃人的な状態でもそうなのかも知れません

しかし時間からの解放とはこんな状態を言うのではありません

爽快明晰にして納得自覚している状態であるのに 時間だけは超越しているのです

 

こんな難しい問題を 小人マイクが答えを出せる筈もないのに 楽観的に考えていると言いました

でもそれが つまりそこに答えがありそうといい加減なマイクながら確信しています

明晰な頭で 時間を超越するとは 時間を忘れる または忘れるのはそう簡単ではない筈ですから せめて気にしないことです

 

私の諦観道」では 諦めの大事さをどう実感するべきかを説きました

時間が迫ってくることを気にせず諦めるのです

私の未練道」では 未練があれば死にきれないことを説きました

大事な未練も来る時までには諦めるしかないのです

未練を諦観する つまりせめて気にしないこと 時間を忘れ時間から解脱する

 

そんなに難しいことではないのです

簡単な方法は別のことを考える

考えなくとも忙しく何かに熱中する

しかも偶には客観的になろうと我に返ることもなく ただそれをやり遂げるには・・・などと難しく考えない

気楽に諦観し未練を捨て 別の楽道に熱中する

貝原益軒の楽しく生きよと言う「楽訓」そのものかもしれない

「此世なる間は 楽みてこそありぬべけれ」

 

益軒は60過ぎまで不遇そのものの損軒を名乗っていたが 改名してからの晩年にやっと著作が売れ出す

81歳の「楽訓」 84歳で大作「養生訓」を出したとたんに85で没す

益軒研究をここでしたいところですがこれ位にしておきましょう

したいことをして時間を忘れる それだけに

 

 

さて次にもう一つの解放 ヒトを宿り主DNAからの解放する つまり DNAの乗り物をDNAから解放することも大事です

DNAに設計された運命から解放しなければ 乗り物のままで自分らしい生き方なぞありややしない

心身がDNAに支配されていると言うことなら この支配から解放されなければヒト自身が存在していないことになります

DNAが仕組んだ生命ルールだけでなく 心理行動としての先入観等も束縛している

ヒト文化の創造した汚れた文化からも

このための方法論としての「私の酒道」は 酒の力を借りてそれを可能にしようと マイクが修行した結果です

文化の諸問題とそれからの解放は このHPの総合テーマなのです

バーチャルな汚れたヒトの現実を見つめ 古人の偉大さを意識し マインドイノベーションの必要性を自覚しすることの大事さを問いながら やれることやるべきことを探してきました

つまり ヒトをDNAの遊びとして作り上げた文化から解放することでした

それにはお酒の効用が際立っており マイクはそれを自覚し実践し実証しようとするものです

マイクの信念です

 

 

更にもう一つの解放は 環境(自然と人工)からの解放 つまり生きていると言う事は環境との接触でしかあり得ないのに それからの縁を切ると言う事 つまり環境からの解脱

それには 死ぬしかないのではなく 環境を 周辺を ヒトとも縁を切って生きる

先に白状したマイクの世捨て思想 仙人道なのですが 決して山村僻地や山中ではなく 都会の中にあっての街中の仙人

その程度で 解脱はできると考えています

 

 

つまりこれら時間 DNA 環境からの解放全てを一言で言うなら リセットすること

過去をなかったこととすること

無視すること 忘れ去ること 過去の悪事を抹消すること

禊ぎとかお祓いとか 古来の神事

解脱とはそういう事だったのです

穢れを清め お迎えを受ける

その前に自らリセットする 未練となる記憶や 時間や 過去や文化や 身の回りの全てからの拘束を

 

しかしリセットとは それは極めて暴力的な無視と言う処世術なのです

無視は 最近の世の中の傾向として よく喩えられている世情の悪しき風習ことです

世に憚るいじめは この一番きつい状態だと言うそのことと同じなのです

その無視を他人にではなく自分にするということとなると 一寸複雑

年寄りの自暴自棄 最後の足掻きなのかもしれません

 

 

つまりは ドライリセット 何も自分からすることではないようにも

こんな殺伐とした考えに陥る積りではなかったのですが やっぱり最後に近付くとこうなるのでしょうか

「楽訓」どころではないようにも思ってしまう

解脱もそう簡単事ではないと言う事のようでもありますが 諦観やしがらみからの解放が われら人生をリセットしてくれるのでしょう

そう信じて解脱へ邁進するしかないのです

 

しかし後どれだけかすれば 何もしなくても 何も考えなくても 解脱は確実に訪れると言うのに 何も老人自らが・・・?

そんなことも分からずこんなことを考えないでおられないマイクは チト可笑しいのでしょうか・・・?

無駄なことを考え過ぎると言う事も人生を豊かにしてくれる・・・?

そう考えて 自ら慰めておきましょう そしてこれ位にしておきます

 

 

最後に マイクの辞世の句をお聞きください  

マイクは 50の時 サラリーマンの限界を感じながら それでも世捨て人になったり 出家する程の財力や家庭を捨てる勇気もなく 定年までをただやり過ごしてしまいました

その時の気持ちを50の時に詠った句があります

 

山吹の 花も咲けずに 実の一つ ならで五十路の 秋ぞ悲しき

 

この歌は 鷹狩り遊びで俄雨に遭った太田道灌が 鄙びた農家に蓑を借りようとしたが 年端ゆかぬ娘に山吹一輪を差しだされ怒って帰ったと言う「道灌の山吹伝説」で有名な

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに 無きぞ悲しき

を思い起こしてマイクが作ったものです

 

銭湯育ちのマイクは 銭湯の絵にあった道灌のこの噺を祖父から聞いて知っていた

その夜近臣から 後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれた句に 蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないかと言われ 驚いた道灌は己の不明を恥じ この日を境にして歌道に精進するようになったという伝説

この歌を本歌取りとして 幕末水戸藩天狗党事件で 武田耕雲斎の別室時子が

かねて実は なしと思えど 山吹の 花も匂わで 散るぞ悲しき

と歌っていて マイクはこちらを更に本歌取りしたものです

悲惨な事件での辞世の句です

早稲田大学文庫 武田耕雲斎の別室時子 月岡芳年画 4月末に咲く

 

山吹は花が咲いても実がならないけれども マイクは50までのサラリーマンで花らしい花を咲かせることもなく50を迎えた

花が無くては残りの定年までの10年で実を付けることなどできる筈がないと嘆き悟って 道灌のようにはポジティブシンキングできなかった

その当時 壮年と老年の間の世代を実年と呼ぶことが流行った

果たしてマイクはそう呼べるかと自問した50歳の誕生日(1989.12.18)の少し前の秋に詠った ただの見苦しいサラリーン哀歌です

 

(小中高生を少年 青年は20〜33 壮年は35〜48 中年は55〜63

まだ早すぎると言う早年 若いとは言えないのを高年と言う  中高年を老年とも言うが 55歳以上で老年になる

初老は40歳であったが今は60歳以上か  成熟した中高年を熟年とも言うようになった

実年は まだ実を付ける働き盛りと言う意味で 単なる中年と区別して 50〜60〜70までを言うが 最近は余り聞かない

WHOの 高齢者65以上 前期高齢者65歳〜 後期高齢者75〜 末期高齢者85〜

雇用安定法では 高年齢者55以上 中高年齢者55〜65 等がある)

 

長寿年齢の呼称(「老いの話題事典」中野展子 東京堂出版2014.7.30 P151から)

60歳 耳順・丁年・杖郷(杖が許される年齢)

61歳 還暦(干支が還る)

64歳 破瓜( )

66歳 禄寿(日本百貨店協会の提案による)

70歳 従心・古希(杜甫の詩より)致仕(官職を退くVS出仕)老・ぽう(老の冠の下に毛の脚の字体)・杖国(国中で杖が許される年齢)

77歳 喜寿(喜の草書体から)

80歳 傘寿(傘の略字から)下寿・杖朝( )

81歳 盤寿(将棋の升目に由来)半寿・漆寿( )

88歳 米寿(よねの祝い)

90歳 卒寿(略字の卆から)星寿(天文少年だったマイクの狙い目?)

95歳 珍寿(111歳以上にも)

99歳 白寿(百から一を除く)中寿(じゅうじゅ)

100歳 期・上寿

108歳 茶寿(十が二つと八十八から成る)不枠( )

111歳 皇寿(白を99 王を一十一として)川寿(せんじゅ)

119歳 頑樹(がんじゅ 二 八 百 一 八)

120歳 昔寿(せきじゅ 廿と百)珍寿・大還暦(1985年人類初に泉重千代さんが)

 

 

更に定年を迎えたマイクは 頭到花も実もなく終わってしまったサラリーマン人生の最後に 60歳定年退職祝いの席で 50歳の続きを詠う

 

山吹きの 花も実もなく ひたすらの やがて去りぬる 冬ぞ悲しき

 

2000.12.末日の 冬真最中のサラリーマンリタイアの哀歌でした

 

 

実はこの時 マイクの辞世の句の構想はできてしまいました

何故ならマイクのサラリーマン生活と同じく これからの残りに余生としての人生に 同じような限界を感じてしまったからですが それでも何か希望や可能性を見つけようと 山吹でも世に役立つ可能性がないかと調べてみて 少しの可能性を見つけたのです

 

山吹は 微風にも揺れることから「山振」の転化とか

一重の山吹は 秋に黒い実を付けるが 七重は花が咲いても実がならないが 茎は藺草の灯芯の代用になって 漢方薬にもなる

代用でもいいから何かの役に立って えげつない日本を作ってしまった我々世代の懺悔と罪滅ぼしが出来ないかとの思いがあって それを実現出来るか分からないにしても その思いだけは残して置きたかったのです

(水瀬神宮の燈心亭は 藺草灯心の代用となる山吹・トクサ・葦・萩など10種類を格天井に使った国指定重要文化財です)

 

道灌辞世の句は 55歳 主君が仕掛けた暗殺刺客に槍で刺され 歌を好むことを知っている刺客は上の句を読む

かかる時 さこそ命の 惜しからめ

道灌は致命傷に少しもひるまず下の句を続けた

かねてなき身と 思い知らずば

 

さてさてこのような縁で 最後にマイク(幹明)の辞世に用意したものは

 

山吹の 花も実もなく ただの 燈にてや 片隅照らさん

 

マイクは道灌の享年55は頭に過ぎて あと少しで後期高齢者に辿り着けても 末期までは有りや無やと思うと 果たして片隅とて照らせるかやと思い 寂しくなるばかり

しかしこの句を胸に残りの人生で 照らせるものあれば照らしたいと思って生きてゆきます

 

 

古来より多く見る優しさに癒される山吹の歌を マイクの辞世の句に相応しいと思ってみた

 

万葉集巻10の詠み人知らず

花咲きて 実はならねども 長き日に 念(おも)ほゆるかも 山振の花

等と多い

 

 

しかし しがないマイクにもっと相応しい植物があった

イチジクは 無花果と書いても 花軸が肥大化した花嚢の内面に無数の花をつける

このような見えない花のつき方を隠頭花序(いんとうかじょ)と言う

食べるのは果肉でなく隠れた花の花托を食べるのですが 不老長寿の果物とも言われる

マイクはイチジクが好きだ

マイクも全く花を咲かせなかった訳ではなく 小さな花を目立たせなかっただけです

派手な花は咲かせなかったが 小さな苦労花を一杯咲かせてきた

九と書いて一字九とも読むが 苦の一字の方が似合っているようにも

36で家の30年ローンをした時 月々の返済額が四苦八苦の49890円だった

 

これを潜り抜けた程度のささやかで 花も実もないサラリーマン人生でしたが 何とか終盤に至って ボヤキや焦りだけでなく 片隅を照らせたらと思うようになり それには欲望や煩悩からの解脱しかないように思い このページで解脱道を考えてみました

 

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最近 と言うか 2015,12,18がマイクの75歳誕生日で 詰まり後期高齢者になった

国民健康保険を返上し 後期高齢者医療被保険者となる(3割負担は変わらず 近々年金天引きにすると云う)

敬老されるとばかり期待していたのに 何もないどころか疎外感が募るばかり

運転免許証更新時期とも重なり 手続きをする

有効期間がこれまでの5年が3年になるばかりか 高齢者講習(視力や運転反応検査)に加えて 認知症検査が義務付けされ 更新費用2500円の外に6000円も取り立てて老人を虐める(若者は年500円なのに 老人から6倍も搾取)歳は取りたくない

免許証を返還をも勧めていて 老人に解脱を急げと云うことらしい

マイクは確かに裸眼でギリギリの視力でしたが 老いぼれても 老人用のゴーカートで街を走り廻りたいマイクです

まだまだ安楽死センターに行く前に 自分で人生の未練を果たすべく 頑張ろうと思います

それでも 最期は 貧乏だとか 自分の意思で罷り間からない時は 誰もがセンターの世話になれるようであるべきだと考えています

安楽死センターの社会的必要性を痛感し これからまだまだメメント・モリしていきます

ご支援お願いします

2016.2.17

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