「私のエゴジジー道」マインドイノベーションのイメージ4(私のエゴ道)

2010.7.1        マインドイノベーションのページに戻る トップページに戻る

 

「マインドイノベーション3」のページで 人を説得する難しさ ディベートを尽くすこともそう簡単でないことを説いた

マイクの世直し実践論に必須の要件である他人の説得実践について 何の見通しも具体論も無くただ嘆いて終わったようであった

それではこのマインドイノベーションの信念そのものだけでなく マイク自身が軽薄なものと思われてもしょうがない

 

改めてこのことを考えてみると 自分自身を説得納得させることの難しさと全く同じなのでしょうか

このことは薄々気が付いていましたが それでもマイクの老後のライフワークたるに相応しいと確信して探求研鑚してきました

納得しないのは 自分の強い持論に反するためか ただの反発心なのか どちらにしてもそれはエゴと言うしかないのかもしれない

 

「京エコロジーセンター」でボランティアするうちに 仲間の老人達が 人生の苦楽や試練を経てきた所為か ボランティアのあり方や エコロジーの考え方に持論・自説を振り撒くのです

それを見て嫌気がして最近は活動をしなくなったのですが その頃はこのセンターを「エロジジーセンター」となった方がいいとか ただの「エゴジジーセン ター」ではないかと 言い触らしたことがあります

 

よく考えれば マイク自身が恥ずかしくもズバリ エゴジジーなのです

老人は人生経験から処世術を得て 次第にずる賢くなり 自分を通す自信が付いてきます

そこで問題なのは 他人を無視するなり卑下するなりと言うほどのことでもなく 否そうならそれだけの実力あってのことなら言わしておけばいいのですが ただ周りを鑑みず 言いたいことを言うだけの老人性の無責任自己中

 

我が身を省みない 残り少ない人生に恥とは無縁の身勝手で 恥など一向に気にしない

老人のエゴについては 本当にあちこちで見ます

仕事のことで 仕事仲間とぶつかり合うのとは全く違うものです

仕事の時は 仕事上の責任や 何よりも生計の持続のためと言う制約があって 我慢を誰もがするので お互いの立場が見えるぶつかり合いであった

 

しかし今の老人たちは 自動振り込みで 首切りの無い公務員の様に年金収入が保証されていて つまり自信もっての無責任そのもので 言いたい放題です

これを感じて あちこちで年寄りを見ると あんたはエゴジジーでしかないと言い撒くっているのです

老人は持論を分かってくれる人が無くてもひたすら 自己中エゴを通し続けること自体に満足しているように思います

 

マイクのボランティア仲間は 所詮元サラリーマンで 団塊の世代前のハッピー・ラッキーな会社生活をしてきたもの達が殆どで この類ばかりです

会社OB会などで会う者も その感覚は全く同じですし 会社時代とは別人のように気楽な老人になり 見るにつけ話すにつけ嫌になりますし情けなくなります

だからといって何もできません 自分自身を視るようで嫌になります

このことこそマイクがこれからを究めるべきことだと思い このエゴ道を考えて行こうとする動機です

何と言ってもエゴは格好悪い そうありたくないと言う思いからです

 

こんな生き方に誰がした

彼らに聞いても自覚が無いのです

私も含めて彼等老人は 人生の残りを気ままな一人旅として 無責任に旅と同じように人生の恥の掻き捨てができるのです

何の不安や恥もないのです 自由気ままなエゴを通せるのです 特に下積みで抑圧されたサラリーマンが解放されて・・・気楽に・・・

 

戦前への反動倫理として 戦後の自由思想が浸透したのでしょう

そしてたまたまの成長経済に巡り合わせた者達でしかないのに 自分たちの努力で貯め込んだ年金を黙って貰って何で悪いのかと言う

こんな脳天気と自己中がこのままあの世で閻魔様に裁かれれば如何なるか・・・マイクは同世代の仲間として要らぬお節介をしたいのです

こんなエゴを考えるにつけ 須原秀一「自死という生き方」の エゴジジーと脳天気を思い出す

この哲学者は ハッピーな時に未練を捨てて自死することを団塊世代に勧めて それを実践したのです

須原秀一著「自死という生き方」の読後感 を是非読んでください

エゴを通して 自分で選んだ死に方を実行したノー天気な哲学者としか思えません

マイクは懺悔することも何の未練もなく自死したと言うのは ただのエゴでしかないとそれを批判し読後感ブログにしました

これをそのまま時系列に並び替えて読みやすくした読後感ページサイトです

哲学者にしてそうなのです 益して我々愚民はエゴの塊でしかなくとも それを恥ずかしくないと思ってしまいます

 

自覚し恥を知り反省すればいいのですが そんなことの全く感じられないようならそれが問題なのです

考えるまでもなく マイク自身もエゴの塊ですので そうでは無いとは言えません

しかし正直言ってエゴジジーであっても それを認識しているからこうしてこのことを考えようとしているのです

 

そうか如何かを反省し そうであってもこのような生き方が格好いいものか 許されるべきものか 考えてみる必要があります

そしてずばりエゴジジーとして 格好良いエゴとは何か どんなエゴジジーが可能か 「私のエゴ道」を考えたい

または自己中でしかないかもしれませんが それを自覚しておくだけでもいいのではないかと これから考えてみます

 

エゴは格好悪い エゴだけ下目立っては格好悪いと自覚する 何が格好悪くさせるのか 如何したらそれを抑えられるか

エゴにも魅力があるかも知れない それを生かすには何をどうすればいいのだろうかと考えてみる

詰まりエゴをエゴと認め エゴの良しきこと悪しきことを弁え それを「エゴ道」として教訓とする そうしたいのです

 

 

エゴジジー達は ボランティアしながら 役に立って嬉しいとか何とか とかく格好を付け自己満足したがる

これはロゴスによって仕組まれた外見体裁を作って 敵を作らず味方であることを誇示しようとする生き方の見え透いたテクニックでしかありません

これは本能的にエロスが身の安全のために戦いを避けているのであって 他人の役に立って喜ぶなんて言うものとは見かけの話です

 

これと同じようにエゴジジーは口先八丁で良いことばかりを振り撒く

他人の為ではなく自分の為なのです 自分に役立つかどうか

他人の為であるかのように装って 自分を守ろうとしているのです

それは大方自分のことばかりを喋って 他人のことを聴かない連中なので直ぐに分かる

殆んどサラリーマン時代に身に付けた世渡り術で 今はそんな醜いものを捨てても気楽に生きて行ける筈なのに・・みっともない

 

先ずこれをかなぐり捨てなくてはならない

自己中を捨てる

見栄を張らない 本質を理解し本質の美しさを知る

詰まりそうでない者は醜いと知るべし   殆どの老人エゴにとって大変難しいのですが

 

自己中を捨てると言うことは 全体主義的に団体・組織・社会・家族と上手くやれなくてはならないと言うことに近い

マイクの得手としないところですが これは必ずしも必須条件ではないと信じています

孤高なエゴもあり得るのではないかと そう慰めながらそのような弁えの道を探しています

それにはそう信じてやってみながら探しながら作り上げるもので その時々の判断がまた大事になります

知性や理性に自信のあるものだけが可能ではないか マイクはその類ではないかと自負して探求を続けたいと思っています

そうすれば生き方が自然と美しくもあり 美しいエゴが作り上げられると思います

 

 

美しい生き方では 生活がスローになり そしてスローに生きることのメリットを知る

若者 子孫の為に出来ることすべきことを考え知り そのことの努力で得られる満足感や天命を知る

何も持たず 未練を捨てる

懺悔し 罪滅ぼしをし それがささやかでも世直しに繋がる

そうなれば何時でも死ねる 心豊かに 満足して

 

無料公開の講演会に何時も参加し その最後に必ず質問する加山裕次郎という有名な男がいる

時には本質を突いた中々の質問をするし 感性に感心することも言うのですが 兎に角怒鳴り声で品が無い

ところが更にはワンパターンで松井やイチローと比較してみたり 比喩話が別の話題に跳んでしまい元に戻らない

長いだけではなく本筋を外れ 更には人の話を聞かないで 独り悦に入る

この男の指導を会場で会う度の私の使命としているが お節介だと誰もが言う

 

何故お節介をするかと言うと 如何見ても老人のイメージを悪くするのを感じるし 最近は質問を受けない講演が多くなった

中間で質問用紙を配ってそれからセレクトしたものだけに対応するところが多くなってきたくらいだ

自分が講師になったように老人は長々と同じことを繰り返し 日頃家庭で無視されているのでここぞと話したがるものが多い

これを黙って放置するのは老人の恥

 

 

話しは簡単だとマイクは思っています

年寄りのエゴは見っとも無い

非難すべきことは長老であろうと誰であろうと批判しよう

見っとも無い物には見っとも無いと言う

多分それだけでいいと思っています

 

ところが実際は 地域の自治会などでは 地域での生活の場であることで気を使わざる負えない

見っとも無くても 見っとも無いなどとは言えないのです

家族があっての家庭生活を守るには 年寄りの権限や利権に刃向えないとの話しをよく聞きます

エゴが通る 詰まり年寄りはエゴ権を保守します

 

こんな現実の中で 老人は大事にもされるかと思うと 毛嫌いもされているのです

その実態を認識し よりよい老人が社会に大事にされてきた日本の文化が 戦後こうも変わってしまったことを嘆くマイクです

このページで何度も繰り返しているのを何と無く気付いて ひと事でなく自分のこととして弁えるべきではと このページを書き始めました

詰まり「老人のエゴ道」を弁えんとするものです

 

とは言え書きながら道を究めんとする程度のものなので 先ずは気になることを暫くここにメモしてから 後でもう一度纏め直してみることにします

 

先ず 今年春 京都文教大鵜飼正樹人間学研究所長企画の 「老人よ 大志を抱け」なるシンポジュウムで 都築郷一の話を聞いた

ユニークな写真集「TOKYO STYLE」などで有名だが 本人こそもっとユニークだった

男の奇人変人且つエネルギーパワーのある老人の話が一杯で エゴはエロに通ずるとでもいうような話だった

 

エゴジジーに対抗するエゴババーのことでは グルメ婆さんや ヨンサン・マイケルお婆さんくらいで おんなのパワーはゴミ屋敷の婆さんくらいにしか見つけられないのだとも

 

老人問題を 老人を見守る側から本根で語り 真摯に取り組むものは余りない

老人問題をビジネスにする本なら多くある

老人サイドからの問題を問題とするのは 老人の自殺や介護福祉についての対応の充実度の問題です

これは確かに沢山ある  しかし問題としては当たり前ですのでこのページでは無視します

 

「暴走老人!」藤原智美 文芸春秋社 こんな本がある

この本の書評は全てボロ滓に書かれている 老人は暴走するどころか目立ちたがりが過ぎると言う

やっぱり老人は静かにしているべきなのでしょう

かと思えば老人道の鏡だと言う本もある志村 建世 元NHKテレビディレクター 野ばら社編集長)

幾つかある中のその一つに自死を勧める須原本の「武士道と老人道」を上げている

確かに何もないより優れて哲学的で美しい

だからと言ってと良いものでは無い

 

老人問題とか老人道をサイトや書籍で調べてみても 意外と狭い突込みしかしていない

こんなことでいいのか 老人の人権や福祉について社会問題としては明らかに多いし大きいが 老人は社会的にもそれ位の価値観しかないのではないかとつい納得してしまう

 

老人は静かなるべし 懺悔し 罪滅ぼしをし 世直しの責任をどれほど果たすかそれが閻魔様の判断に繋がる

簡単な結論が老人には大事なのです

 

 

死に行く前の老人道としてマイクは大いに語っているのが このHPの古人のパワーのページです

世直し そして罪滅ぼしhttp://mike12.web.fc2.com/yonaoshi.htm

 

老人問題を考えるもう一つのページは

自死と言う生き方読後感ブログ で ここには必殺老人道など 怪しげにして危険な発想を真剣に研究しています

そのために自死を考えておく

 

長々と纏まりなく書き殴ってみましたが 内容的には余りにも程度が低いので これ以上進めるのはエゴ丸出しだと分かってきました

老人の吐き出す言葉のマンネリと繰り返し それをここに示しただけのようで恥ずかしい

社会的人間 個人的 気まま 自由柔軟 ルーズ 私利私欲 リーズナブルにせよ ソフトランディングせよ 上手くやれ    これで最後にしていいかと思う

 

京都何必館の「良寛遺墨展」で 良寛戒語なるものを知った

こころよからぬものは・・・と色々嘆き教えている筆跡を見て これこそ老人道を示していると思った

実に多くを語っているし サイトで一杯見ることができますので 今更このページがいるとは思えなくなった

しかしその心を忘れている老人の多い事を嘆くくらいで充分なのでしょうか

そうではなくそれを知らしめ この世に理解者実践者を一人でも多くし 恥ずかしくない老人が敬われる社会にしたいものです

戒語の下りを転記し 終わりとします

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